心はマリー・アントワネット

見たいものが日本に来ない?じゃあ自分が行けばいいじゃない!

Wilco's Glenn Kotche / Modern Drummer Magazine インタビュー その3

Sonorがドラムセットを届けてくれて、セットアップを済ませて、「OK、さあ何を演奏しよう?」って感じだった。だから僕は自分とゲームをすることにした。すごく馬鹿げてるかもしれないけど、こう考えたんだ。もし、もう二度と誰も僕のドラムを聴くことがなかったら? もしもう二度とレコーディングすることがなかったら? もしもう二度とステージで演奏することがなかったら? もしもう二度と他のミュージシャンとプレイすることがなかったら? それでも僕は演奏するだろうか? Yeah! 僕はドラムを叩くときに感じる、身体の運動器官が連動して解放されていく感覚を愛してるんだ。じゃあ、何を演奏しよう? 時間は気にしない---気にしなくてもいい。だって一緒に演奏する相手はいないんだから。必死になって頑張らなくてもいい。だって誰かに印象付ける必要なんてないんだから。もしも「楽しいから」という以外に演奏する理由がなかったら、僕は何を演奏するんだろう?

 

 協奏曲を演奏することから離れて、僕は、そうだな、クールなビートを創造することに夢中になってた、って感じかな。新しいテクニックを研究していたんだ。子どもたちを学校に送り迎えするとき、バスの座席にすわっていると---僕たちはフィンランドでは車を持ってなかったから---ビートがどんどん頭の中に浮かんできた。そして僕はドラムセットのところに行って、その、音楽と結びついていない、それ故に実際の場面での実用性などないビートを演奏した。

 

 このことはまさに探検する喜びそのものだったんだ。「もしこれをやったらどうなるだろう?」って。そしてものすごく楽しかった。だって、これもまた作曲なんだから。80分の協奏曲を作る代わりに、僕は5秒の小さいかけらを作曲していたんだ。でも僕は、この小さいかけらを普通使うような「ビート」とは違うものとして扱った。もっと「作曲的に」扱ったんだ。音楽とは違うもの、たとえば詩、均衡、韻を踏むこと、風水…等と比較して考えていた。たとえば、道教における「陰と陽」みたいな…。僕にとってはキックとスネア、この2トーンはドラムの始まりから存在するものなんだ。土着の文化においては、必ず低い音と高い音の二つが存在した。隣の村の人々と情報交換をしていない、もしくは前線にいる兵士たちに攻撃の合図を出さない、という場合を除けばね。

 

 この年の末に起こった僕の次のソロプロジェクトでは、全てがこのビートがベースになった。でも、ウィルコとスタジオに入って、いわゆる「ロック」のレコードは作らない、というアイディアが浮かんだとき、僕は考えた。僕はこのところビート以外のことは何もやっていなかった。だからもうビートは一切やらない、って(笑)。つまり、ジェフと一緒にスタジオに入った時の気持ちはこんな感じだったんだよ。

 

 僕はものすごく大きなキットをセットアップしたんだけど、全部をいっぺんに使ったわけではなかった。どうしようと思っちゃうくらい大きかったんだよ。低いベースの音を出すものが4種類、高い音を出すものが4種類、その上に更に別のドラムを引っ張り上げて付けた。それから、マーチングバンドで使うバスドラムやコンサート用のバスドラム(注・オーケストラなどで使われるタイプのだと思います)をたくさんスタジオにセットして、マリンバ用のマレットやマラカスやピンポン玉のシェイカーで叩いた。キックドラム(注・通常バスドラムを足で叩くためのペダル)とは違う音になるからね。それから、たぶん壊れているスネアドラムや、ヘッドをチューニングしていないスネアドラムも叩いたし、普通のスネアドラムと同じ音にならないようにいろんな変わったものを使って叩いたりもした。それから、シェイカーや、スレイベルや、シードポッドや…。

 

 アンティークのパーカッションにもこだわってみたんだ。この種の低い音を出すドラムの例外は、マイネル(注・ドイツの打楽器メーカー)のヘッドがビニールで出来たエスニックドラム。これらのタムの音にコンサート用のバスドラムの音を重ねたり、フロアタムの音を調整して重ねたりした。僕がドラムセットをオーケストラみたいに演奏してた、って言いたいんだろ? わかるよ。その前の9~10か月間にやっていたことと正反対のことをやるのは面白かった。つまり僕はすべてのウィルコのレコードでマルチトラック録音をしてきたけれど、僕の考え方は、なんと言うか、まず主要なビートがあって、ここにパーカッションがある。そしてデモを聴いて考える。OK、3トラック必要だ。ドラムセットのパート、そして多分ブラシで叩く2つめのドラムセットのパート、それからパーカッション。でも今回、僕はこんなふうに考えた。まず鼓動(パルス)のパート、次に鼓動に沿う別パート、それから鼓動に対抗するもうひとつのパート。これは、もっとなんと言うか、違うアイディアを重ねていく、みたいなことだったんだ。

 

MD:アンティークのドラムを使ったということですが、あなたの全体的なコンセプトはとても現代的ですよね。僕たちがドラムセットの前に座った時のリアクションを考えてみると、あなたのコンセプトは他の考え方があることを示唆している。つまり、善かれ悪しかれ、僕たちがとらわれてしまっている「間違いない」考え方からあなたは自由なんだ。

 

グレン:うん。多分、今日ではより自由になっているだろうね。僕たちが現在聴いているドラムは、プログラミングで作られたものが以前よりも多くなっている。プログラミングなら身体的な限界以上のものがやれるんだ。プログラミングをするたくさんのプロデューサー達はリスクを恐れず挑戦し、突飛でクレイジーなことをやる。僕はそういうのが大好きなんだ。それは解放なんだ。そこでも同じように決まったパターンに落ちてしまうことはあるけれどね。

 

 君が「新しい」と思ってくれてめちゃくちゃ嬉しいよ。でも僕がやっていることの多くはドラムセットの元々の考え方から来ていることなんだけどね。そう、ドラムは「セット」なんだ。元々ドラムセットはいろんな異なる楽器を組み合わせて、その上にフォーリーサウンド(注・テレビやラジオ、舞台で使う手作りの材料による効果音)を乗せたものなんだよ。なぜなら、彼ら効果音の技術者たちはとても大きいパレット(注・物流用の簀の子状の台)を持っていて、コメディアンやダンサーや歌手をサポートしていたんだから。僕としてはドラムセットってそういうものなんだ。皆が「君が演奏してるのはドラムというよりパーカッションのセットだよね」みたいに言う。それに僕は「うん。でもドラムはパーカッションだよ」と答える。ドラムはそうあるべきなんだ。単純な理由として、一つの曲全体を通じて安定したビートがない、ということが、「それはドラムのプレイではない」という意味にはならない。なぜなら、ドラムはあるテクスチャー(注・音楽的には「さまざまなメロディー、リズム、楽器を組み合わせて作られる効果のこと」)から違うテクスチャーへと移行しているだろう? それもドラムプレイなんだ。僕はドラムセットをもっと選択的に使っているだけなんだ。

 

(続く)