心はマリー・アントワネット

見たいものが日本に来ない?じゃあ自分が行けばいいじゃない!

Wilcoインタビューその3

彼らがこういうやり方をするのは地理的な理由もある。ジョンはメイン州ブレーメン、マイクはカリフォルニア州のオーハイ、ネルスはブルックリン、パットはテネシー州ナッシュビルに住んでいるからだ。

 

 ネルスが語るには、メンバーたちがこのようにアメリカ中に広がって暮らしているおかげで、リハーサルやレコーディングでLOFTに集まった時に「キャンプに来て二段ベッドで寝ているような」雰囲気ができている、とのことだ。「仕事の環境が、The Monkeesによって作られた自分の素朴なイメージに近いと思うんだ。一緒に寝起きして作品を作る、みたいな」(「あそこまでエキセントリックじゃないけどね」とジェフが皮肉っぽく笑う。)

 

 ギタリストはまた、今回彼らがアルバム制作において段階的なアプローチをしたことによって「Ode to Joy」は音が密集するのを避けることができた、と強調する。「同じ場所にメンバー6人全員が揃い、たくさんの楽器があったら音が多すぎるようになってしまった可能性がある。だからジェフはそういう方向に向かってしまわないようにとても気を付けていた。大きくて広い音にならないように注意深く皆の特質を付け加えていったんだ」

 

 ジェフのバンドの仲間たちは、自分たちの主な役割はジェフの歌と物語をサポートすることだ、と即座に指摘する。特に、彼らのフロントマンが作った、豊かで尚且つ余分なものを一切取り払ったソロアルバムについては、と。それは「Bright Leaves」の完璧に静かなイントロからも明らかに見て取れる。すべてのメンバーがバンドの並外れた「声」にどれほど貢献していることか。

 

 ジェフ:「音数が少なくフォークやアコースティックがベースのアンサンブルは、それ自体で何かしら告白のように感じられるんだ」「つまり、ある男がこの歌を歌って何かの物語を語ろうとしている、みたいに。俺が、俺についての歌詞を書いた、というよりもはっきりと。ウィルコではいつも、ひとりの人間の声がひとりの歌を歌っている。でも、『それが誰なのか』は俺にとってはそんなに重要ではなくなってきているんだ。それよりも重要なのは、その人間が何かもっと大きい、違うものへと姿を変え形を変えていくことができ、何か他の物の一部になっていくことができる、と考えることなんだ」

 

 ジェフは熱帯地方の歌がアメリカの伝統的なフォークソングの要素のひとつであることを素直に認めている。しかし、彼はそのことには疑問の余地があるとずっと感じていたことも告白している。そして現代の政治的情勢の厳しい現実やSNS世代とのコミュニケーションを曇らせる闇があるにもかかわらず、「Ode to Joy」がそれらのテーマに踏み込むのを避けようとした。

 

 ジェフ:「世間はウィルコが現代の重要な問題についての議論に加わることを必要とはしていないと思う」「俺はいつもアーティストが、Twitter上ですら、議論に加わらないとならない、という要求に関しては少しばかり困惑してるんだ。そんなことは俺の心にとっても友人にとっても家族にとってもたいして価値があるとも正当だとも思わない。自分の作品にもそういうことを入れたくない。俺は挑戦的でありたいけど同時に、君が何か特別なことについて反抗的なことは書きたくないという現代の情勢にたいして誠実でもありたいんだ。俺にとって、君が市民として責任を取りたいと思うやり方は、君がアーティストとしてどのように責任を取るかということとは何の関係もない。思うに、俺たちは皆、今よりほんの少し意識的であること、ほんの少し一生懸命働いて、ほんの少し隣人に対して優しくあることが課せられている。でも俺の考えでは、ウィルコが聖歌隊にありがたい教えを歌って聞かせるなんてことは「ボールを前に投げる」ことにはならないと思うんだ。俺はいつもフェラ・クティこそが最高のプロテストミュージックだと思っている。彼は常に具体的な問題について歌っているけれど、同時に彼の歌はいつだって最高にファンキーなダンスミュージックになり得ている。俺はあのレベルにはとても到達できないよ」

 

 その上、これは明らかに言葉遊びなのだが、このアルバムのタイトルは昨今の芸術的な会話についての崇高な肯定にもなっている。

ジェフ:「俺の知っているアーティストは皆、この新しい『存在についての不安や混乱―日々容赦なくなりつつあるように思える性急な怒り―』を取り上げている」「俺たちはこのアルバムで、ドラムと手加減しないパーカッションによって、普段よりも少しばかり多くこの問題について意見を述べている。偶然にも歌詞の面でもね。俺はいつも息子たちにこの問題について話をしているんだけど、でも、結局は皆、自分で喜びの「場所」を見つけなきゃいけないし、自分で怒りではない他の感情を見つけなければいけないし、そのいろんな感情を気後れすることなく感じることができる「場所」を見つけなきゃいけないんだ。さもなければ、大事にとっておく価値などないものを後生大事に持ち続けることでもがき苦しむ羽目になってしまう」

 

 このアルバムはここ数年のジェフと家族の苦難の時期を経て発表された。当時彼は下の息子のバル・ミツワー(注・ユダヤ教の成人式)に合わせてユダヤ教に改宗し、さらに妻の癌との闘病を見守っていた。

 

 グレン:「スージーの闘病中はジェフたちにとって本当に苦しい時期だった。彼らはそこからちゃんと抜け出していい場所に出てきたよ。でも、ああいう経験はものの考え方や創作にとても大きく影響する。その衝撃がこのレコードには表れていると強く感じるんだ」

 

 ジェフ:「アルバム全体の最終的な目標は、ゼロから始めて、そのアルバムの文脈の中でのみ意味を成す音楽的な新しい宇宙に入る道を見つけることなんだ。俺が大好きなアルバムはどれも、独特の論理が芯にあって他のどんなアルバムとも似ていない。それが重要なんだ。グレンと二人だけでLOFTで始めたとき、このアルバムにとってのその論理を見つけるのはいつもよりずっと簡単だった。まるで風景の中を歌を乗せて走っていく車に、俺たちは運転しながら車の窓からいろんなものを二人で引っ張り込んで、その雰囲気を実況中継してた、みたいに」

 

(続く)

Wilcoインタビューその2

 2018年末。その年の大半を別れて過ごしたのちに、ジェフとグレンはウィルコの有名なスタジオ、LOFTに再結集した。「Ode to Joy」のアウトラインについての作業を始めるためだ。最初は二人のどちらもこのセッションに関して具体的な展望は持っていなかった。

 

 グレン:「僕たち二人だけがシカゴ在住だし、ジェフはいつもLOFTでレコーディングしてるから。僕は2日ほど、ただ参加するだけだと思ってたんだ。彼が何か演奏して、僕はただそれに合わせよう、と」「ほとんどの音はまだi-phoneのデモかただのアイディアで、スペンサーと一緒にほんの少し肉付けしたくらいのものだった。僕たちはその中のいくつかのピースを着地させることから始めたんだ。今回僕がレコーディングで取った方法は、いつもより『積み重ねていく』ような感じだった。ドラムセットの前に座って各パートを作っていく、みたいなやり方ではなかった」

 

 「WARMとWARMER」は俺のとても重要なアイデンティティなんだ。他の人たちも同じように感じるかどうかはわからないけど。でもこの2枚は同じところに属していると思える」とジェフは付け加える。「この2枚と『Ode to Joy』を並行して作っていたんだけど、『Ode to Joy』の曲はソロアルバムには合わないし、歌詞の面でも適切じゃないと思っていた。ウィルコのメンバーは全員すぐに乗ってきたけどね」

 

 グレンはフィンランドで今までとは違うドラムへのアプローチについて考える時間をたっぷりと取ることができた。「僕には労働ビザがなかったし妻はひとりでヨーロッパ中を旅行してたから、基本的には家で『お父さん』をやってたんだ。特に目標を決めずに読書したり音楽を聴いたりする時間は十分にあった」「すごく楽しかったよ。今までこういうことを自分一人でやる訓練はしたことがなかったから。車もなかったし、子どもたちを学校に送り迎えするために毎日5~10マイルも歩いて、バスにもたくさん乗った。それまでの10年間は狂騒的な毎日だったから、まるでスピードを落としてカーブを曲がりながら次の段階に行く準備をしてる、みたいな感じだった」

彼は家に練習用のドラムキットを置いて、インスピレーションを得るために、大学時代に影響を受けたジョン・ケージを見直していた。

 

 「シカゴに戻ってジェフに再会したとき言ったんだ。『今はもう"ビート"はやりたくない。"リズム”と”パルス(鼓動)”をやりたいんだ』って。」「固定観念は求めていなかった。『こうあるべき』と思わせるような『ビート』はやりたくなかった。僕は『不在(なにもないこと)』を受け止めたかったんだ」

 

  ウィルコがアルバムを出すたびにスタイルを変えていったように、メンバーたち自身もまたクリエイティブなアプローチ方法をその都度変えていった。時にはジェフが地下室で曲を書き、他のときにバンド全員によってアルバムとしての肉付けがされる。まるでボブ・ディランが「Basement Tapes」を作ったときのように。

 

 グレン:「レコーディングのために全員が一斉に集まれなくても僕は気にしない。なぜなら、僕たちが結局このやり方になる以前は、それは単純に時間的な問題にすぎなかったから」「『A Ghost is Born』のときは何か月も実験を繰り返した『Sky Blue Sky』では”バンド”として狭いスペースですべてを一緒にやった。それから『Star Wars』(ウィルコのデビュー20周年の年に発売された)はそれとは正反対のやり方だった。ジェフがほとんどすべてのデモとアレンジを作ってきて、僕らはただスタジオに入って自分のパートを演奏するだけだったんだ」

 

 「『Schmilco』も俺がかなりのところまで作ってたんだけど、メンバー全員でも何人かの小さなグループに分かれてウィルコとしてのアイデンティティを付け加えていったんだ」とジェフはグレンの言葉を受けて言った。「こういう形でのセッションが途中まで続いた。6人のほとんどが同時に演奏したり最初から揃ってたってことはなかったんだ。音楽的な雰囲気を作るためにかなり多くの時間を費やしたのは確かだけど」

 

(続く)

 

Wilcoインタビューその1(勝手に訳しました)

relixという雑誌に載ったWilcoのインタビューがとてもよかったので自分で訳してみました。元記事は2020年1月2日掲載。日本語が不自然なところや誤訳、誤字脱字もあるかと思いますがお許しください~。かなり長いので何回かに分けます。

 

元の英語記事はwebで読めます。

https://relix.com/articles/detail/wilco-delayed-gratification/

 

 

Wilco 「遅くなったけど、満足している」

 

ウィルコが実り多い活動休止から帰ってきた。斬新なニューアルバムと、もう「本物」について考えすぎることはない、との約束とともに。

 

 

 数年前、グレン・コッチェはツアーに出るミュージシャンなら誰もが恐れる不可能な選択に直面していた。家族とバンド、どちらを選ぶか。2017年1月、妻のミイリが生体工学の研究でフルブライト奨学金を受けてフィンランドで研究できることになったのだ。イリノイ大学で様々な医療テクノロジーの設計過程を研究し教鞭をとるミイリにとって最大級の栄誉だ。だが、2001年からウィルコでドラムを叩いているグレンにとっては、それは長年在籍したバンドを辞めるか、自分だけアメリカに残って家族を外国へ送り出すか、の選択を意味していた。

 

 「バンドとしては二つの選択肢があった。そしてメンバーの誰一人としてミイリに『もしグレンがウィルコに留まりたいと思えば、君はこのチャンスをあきらめなくてはならない。さもなければバンドは解散だ』と告げよう、と言い出す者はいなかった」とジェフ・トゥイーディ(ウィルコのフロントマンで創設者でありほとんどの曲を書いている)はある夏の午後にそう語った。「だけど選択肢はもうひとつあったんだ。俺たちはそっちを選ぶことにした。だから、多分、バンドが休暇を取ることはなかなかいいアイデアだったし、ミイリと彼女の家族に敬意を表することもできたわけさ」

 

 ジェフはマンハッタンのミッドタウンにあるホテルの部屋でソファに腰かけ、フード付きのパーカを羽織って目を細めながら、ウィルコの活動休止という「究極の選択」を振り返る。隣にはバンドでひとりだけニューヨーク在住のギタリスト、ネルス・クライン。ネルスが現在事務所を置いているこのビルの一階には世界的に有名なスピークイージー(注・禁酒法時代の違法な酒場。現在では当時のレトロな雰囲気のバーを指す)風のハンバーガーレストランがあるが、ジェフは「もうああいう類のものは食べないよ」と即座に言った。

 

 ジェフは長年シカゴに住んでいるのだが、リンカーンセンターでの無料野外コンサートのために現在NYに来ている。このコンサートは兄弟とも言うべきソロアルバム「WARM」と「WARMER」のために行われるもので、この2枚はグレンが海外にいた間の、ウィルコ活動休止が結局1年間に伸びてしまった年、2018年に発売された。ニューヨーク滞在中に彼はもうすぐ発売されるウィルコの11枚目のアルバム「Ode to Joy」についても言及した。いろいろな意味においてとても興味深い形に回帰したこのアルバムは、彼らの活動休止がもしなかったら実現し得なかっただろう。

 

 ジェフ:「グレンが家族と一緒に行くことで後ろ向きな気持ちをを少しでも持つなんて絶対に嫌だったんだ。ミイリにとって今回のことは誇るべき素晴らしいことなんだ。でもグレンに最初にこのことを話したとき、これが『諸刃の剣』になる可能性もある心配について言うこともできた。でもツアーは俺たちにとって生計の手段だけど、幸運なことに俺たちはすでに全員が各々の生活を臨機応変に変えていけるし、その変化を続けていけるようにもなっていたのさ。たとえこれまでと同じ収入が得られなくても、どんな種類の活動休止期間になっても耐えられるようにね」

 

 結局、ウィルコの活動休止は2017年11月に始まり、グレンが帰国した数か月後の2019年6月まで続いた。2014年にジェフが自身の名前を付けたソロバンド・Tweedyとして出したアルバム「Sukierae」のツアーのために一時期バンドは休止したことがあるが、今回は各メンバーにとって最も長く互いに離れていた時間となった。だがメンバー全員、精力的に活動していた。ベーシストでバンドの創始者のひとりであるジョン・スティラットはレイ・モンタンとツアーをやり、マルチプレイヤーのパット・サンソンはほかのミュージシャンたちとセッションしたりMilk Carton Kids等のバンドとレコーディングしたりしていた。キーボードのマイケル・ジョーゲンセンは自身のソロプロジェクトに力を入れた。

 

 ジェフは前述のソロアルバム2枚に加え自伝を出版し、他のミュージシャンたちやTVスター、コメディアンたちと出版記念ツアーをやって好奇心を満たした。

 

 「俺はいい俳優じゃないんだ」とジェフは出演した番組「Portlandia」「Hearts Beat Loud」「Parks」「Recreation」を振り返り、次のシーズンにゲスト出演することが噂されている「Curb Your Enthusiasm」を思い浮かべながら楽しそうに笑う。「演技の勉強なんて全然やったことないし。だから今こうやって、カメラの前で自分自身を演じることができる、少なくとも違う名前の自分のふりをしてる、って評判なんだ。自分では楽しみにしてる。でもまだ限界までめいっぱいチャレンジしたわけじゃないけど。ほとんどは、50年代の葬式の喪主みたいにちょっと演技していただけだよ。とても時間がかかってたんだけどね」

 

 ネルスはメディスキ・マーティン&ウッドと同じ事務所だ。彼は活動休止中、ニューヨークのダウンタウンの音楽シーンに頭から飛び込んだ。様々なジャンルのジャズ、ジャム、アヴァンギャルドのミュージシャンたちとコラボし、その合間にPhishのコンサートのブッキングさえもやった。また、ギターの名手ジュリアン・ラージをフィーチャーしたネルス・クライン・4としてアルバムを出し、妻のユカ・ホンダとともに実験的なCUPとしても活動した。

 

 ネルス:「多種多様な芸術的衝撃を享受するのは究極の祝福だよ。後に戻って何かほんの少し違うことをするのもいい。でも皆が自分自身の「声」を持っている。私にとって、それはインプロヴィゼーション(即興)だ。前もって計画を立てないからすべてのことに「Yes」と言うことができるし、演奏しているあいだ常に自分自身を発見することができる。単純に、演奏するのが好きなんだ。でもウィルコの皆にはとても会いたかったよ。ただ個人的な友達として」

 

 意図したものではなかったが、ウィルコのメンバーはオルタナカントリーの創始者だったUncle Tupelo(の燃え殻)時代から、バンドの歩みに合わせてまるで回転ドアのように「入っては出て行く」を繰り返してきた。だが、2004年以降は固定メンバーを維持し続けている。これはバンドとしては大変な偉業だ。同じ年にウィルコはクラウトロックに影響されたヘヴィなギターサウンドが特徴のアルバム「A Ghost is Born」をリリース。彼らはこのアルバムでジャムバンドとしてのアンサンブルを重視し、多数のフェスを回ることとなった。それ以来、この6人はウィルコの音を目まぐるしく変化させ続けている。ゆるやかでそよ風のような「Sky Blue Sky」、タイトでパンキッシュな「Star Wars」、そして前作からの揺り戻しなのか風通しのいい「Schmilco」。

 

 さらに、ジェフとメンバーたちはライブもアルバムと同じようにユニークなものにしようと努めてきた。ツアー中にアコースティックセットを入れることで区切りをつけ、シカゴでのスペシャルライブではすべてのレパートリーを演奏し、Solid Sound フェスでの全曲他のミュージシャンの曲をカバーしたセットやファン参加のライブカラオケ等々。しかし彼らの努力にもかかわらず、ある意味でウィルコは彼ら自身の「信頼」の犠牲になっていた。

 さらにインディーロックの「対話性」がヒップホップやサイケデリック、ストレートなポップへと移行していった今日では、彼らのスタイルの変遷は何となく古めかしくて風変わりなものだと感じられ始めていた。(同じような姿勢を持つバンドが再び集まるためのポイントとして「Dad-rock(お父さんのロック)」という名称を自らに付けたバンド自身にとってさえも)。だから、サバティカル(注・主に大学教授に与えられる研究や留学のための長期有給休暇)を取ろうというアイデアが出てきたとき、バンドにとってはちょっとした「再起動」のためのいい考えだと思えたのだ。

 

 「私たちはフルスピードでレコードを出し続けてきた。それにジェフは活動休止の前ですら『皆がウィルコを調べ尽くして消費してしまうんじゃないか』と言っていた。彼は本当に頭がいいんだ」とネルスは付け加えた。「ジェフはとても創造力にあふれている。常に曲を書き、ウィルコとしてレコードを出す。ほんの少し声を変え、違う役を演じて自分を表現する。息子のスペンサーも巻き込んでね。スペンサーも素晴らしいよ。― だから活動休止は、偶然ではあったけれど、私たちにとってはしばらくの間姿を消して世間の注目を集めるいいアイデアだったんだ」

 

(続く)