心はマリー・アントワネット

見たいものが日本に来ない?じゃあ自分が行けばいいじゃない!

Wilcoインタビューその2

 2018年末。その年の大半を別れて過ごしたのちに、ジェフとグレンはウィルコの有名なスタジオ、LOFTに再結集した。「Ode to Joy」のアウトラインについての作業を始めるためだ。最初は二人のどちらもこのセッションに関して具体的な展望は持っていなかった。

 

 グレン:「僕たち二人だけがシカゴ在住だし、ジェフはいつもLOFTでレコーディングしてるから。僕は2日ほど、ただ参加するだけだと思ってたんだ。彼が何か演奏して、僕はただそれに合わせよう、と」「ほとんどの音はまだi-phoneのデモかただのアイディアで、スペンサーと一緒にほんの少し肉付けしたくらいのものだった。僕たちはその中のいくつかのピースを着地させることから始めたんだ。今回僕がレコーディングで取った方法は、いつもより『積み重ねていく』ような感じだった。ドラムセットの前に座って各パートを作っていく、みたいなやり方ではなかった」

 

 「WARMとWARMER」は俺のとても重要なアイデンティティなんだ。他の人たちも同じように感じるかどうかはわからないけど。でもこの2枚は同じところに属していると思える」とジェフは付け加える。「この2枚と『Ode to Joy』を並行して作っていたんだけど、『Ode to Joy』の曲はソロアルバムには合わないし、歌詞の面でも適切じゃないと思っていた。ウィルコのメンバーは全員すぐに乗ってきたけどね」

 

 グレンはフィンランドで今までとは違うドラムへのアプローチについて考える時間をたっぷりと取ることができた。「僕には労働ビザがなかったし妻はひとりでヨーロッパ中を旅行してたから、基本的には家で『お父さん』をやってたんだ。特に目標を決めずに読書したり音楽を聴いたりする時間は十分にあった」「すごく楽しかったよ。今までこういうことを自分一人でやる訓練はしたことがなかったから。車もなかったし、子どもたちを学校に送り迎えするために毎日5~10マイルも歩いて、バスにもたくさん乗った。それまでの10年間は狂騒的な毎日だったから、まるでスピードを落としてカーブを曲がりながら次の段階に行く準備をしてる、みたいな感じだった」

彼は家に練習用のドラムキットを置いて、インスピレーションを得るために、大学時代に影響を受けたジョン・ケージを見直していた。

 

 「シカゴに戻ってジェフに再会したとき言ったんだ。『今はもう"ビート"はやりたくない。"リズム”と”パルス(鼓動)”をやりたいんだ』って。」「固定観念は求めていなかった。『こうあるべき』と思わせるような『ビート』はやりたくなかった。僕は『不在(なにもないこと)』を受け止めたかったんだ」

 

  ウィルコがアルバムを出すたびにスタイルを変えていったように、メンバーたち自身もまたクリエイティブなアプローチ方法をその都度変えていった。時にはジェフが地下室で曲を書き、他のときにバンド全員によってアルバムとしての肉付けがされる。まるでボブ・ディランが「Basement Tapes」を作ったときのように。

 

 グレン:「レコーディングのために全員が一斉に集まれなくても僕は気にしない。なぜなら、僕たちが結局このやり方になる以前は、それは単純に時間的な問題にすぎなかったから」「『A Ghost is Born』のときは何か月も実験を繰り返した『Sky Blue Sky』では”バンド”として狭いスペースですべてを一緒にやった。それから『Star Wars』(ウィルコのデビュー20周年の年に発売された)はそれとは正反対のやり方だった。ジェフがほとんどすべてのデモとアレンジを作ってきて、僕らはただスタジオに入って自分のパートを演奏するだけだったんだ」

 

 「『Schmilco』も俺がかなりのところまで作ってたんだけど、メンバー全員でも何人かの小さなグループに分かれてウィルコとしてのアイデンティティを付け加えていったんだ」とジェフはグレンの言葉を受けて言った。「こういう形でのセッションが途中まで続いた。6人のほとんどが同時に演奏したり最初から揃ってたってことはなかったんだ。音楽的な雰囲気を作るためにかなり多くの時間を費やしたのは確かだけど」

 

(続く)