心はマリー・アントワネット

見たいものが日本に来ない?じゃあ自分が行けばいいじゃない!

Wilcoインタビューその1(勝手に訳しました)

relixという雑誌に載ったWilcoのインタビューがとてもよかったので自分で訳してみました。元記事は2020年1月2日掲載。日本語が不自然なところや誤訳、誤字脱字もあるかと思いますがお許しください~。かなり長いので何回かに分けます。

 

元の英語記事はwebで読めます。

https://relix.com/articles/detail/wilco-delayed-gratification/

 

 

Wilco 「遅くなったけど、満足している」

 

ウィルコが実り多い活動休止から帰ってきた。斬新なニューアルバムと、もう「本物」について考えすぎることはない、との約束とともに。

 

 

 数年前、グレン・コッチェはツアーに出るミュージシャンなら誰もが恐れる不可能な選択に直面していた。家族とバンド、どちらを選ぶか。2017年1月、妻のミイリが生体工学の研究でフルブライト奨学金を受けてフィンランドで研究できることになったのだ。イリノイ大学で様々な医療テクノロジーの設計過程を研究し教鞭をとるミイリにとって最大級の栄誉だ。だが、2001年からウィルコでドラムを叩いているグレンにとっては、それは長年在籍したバンドを辞めるか、自分だけアメリカに残って家族を外国へ送り出すか、の選択を意味していた。

 

 「バンドとしては二つの選択肢があった。そしてメンバーの誰一人としてミイリに『もしグレンがウィルコに留まりたいと思えば、君はこのチャンスをあきらめなくてはならない。さもなければバンドは解散だ』と告げよう、と言い出す者はいなかった」とジェフ・トゥイーディ(ウィルコのフロントマンで創設者でありほとんどの曲を書いている)はある夏の午後にそう語った。「だけど選択肢はもうひとつあったんだ。俺たちはそっちを選ぶことにした。だから、多分、バンドが休暇を取ることはなかなかいいアイデアだったし、ミイリと彼女の家族に敬意を表することもできたわけさ」

 

 ジェフはマンハッタンのミッドタウンにあるホテルの部屋でソファに腰かけ、フード付きのパーカを羽織って目を細めながら、ウィルコの活動休止という「究極の選択」を振り返る。隣にはバンドでひとりだけニューヨーク在住のギタリスト、ネルス・クライン。ネルスが現在事務所を置いているこのビルの一階には世界的に有名なスピークイージー(注・禁酒法時代の違法な酒場。現在では当時のレトロな雰囲気のバーを指す)風のハンバーガーレストランがあるが、ジェフは「もうああいう類のものは食べないよ」と即座に言った。

 

 ジェフは長年シカゴに住んでいるのだが、リンカーンセンターでの無料野外コンサートのために現在NYに来ている。このコンサートは兄弟とも言うべきソロアルバム「WARM」と「WARMER」のために行われるもので、この2枚はグレンが海外にいた間の、ウィルコ活動休止が結局1年間に伸びてしまった年、2018年に発売された。ニューヨーク滞在中に彼はもうすぐ発売されるウィルコの11枚目のアルバム「Ode to Joy」についても言及した。いろいろな意味においてとても興味深い形に回帰したこのアルバムは、彼らの活動休止がもしなかったら実現し得なかっただろう。

 

 ジェフ:「グレンが家族と一緒に行くことで後ろ向きな気持ちをを少しでも持つなんて絶対に嫌だったんだ。ミイリにとって今回のことは誇るべき素晴らしいことなんだ。でもグレンに最初にこのことを話したとき、これが『諸刃の剣』になる可能性もある心配について言うこともできた。でもツアーは俺たちにとって生計の手段だけど、幸運なことに俺たちはすでに全員が各々の生活を臨機応変に変えていけるし、その変化を続けていけるようにもなっていたのさ。たとえこれまでと同じ収入が得られなくても、どんな種類の活動休止期間になっても耐えられるようにね」

 

 結局、ウィルコの活動休止は2017年11月に始まり、グレンが帰国した数か月後の2019年6月まで続いた。2014年にジェフが自身の名前を付けたソロバンド・Tweedyとして出したアルバム「Sukierae」のツアーのために一時期バンドは休止したことがあるが、今回は各メンバーにとって最も長く互いに離れていた時間となった。だがメンバー全員、精力的に活動していた。ベーシストでバンドの創始者のひとりであるジョン・スティラットはレイ・モンタンとツアーをやり、マルチプレイヤーのパット・サンソンはほかのミュージシャンたちとセッションしたりMilk Carton Kids等のバンドとレコーディングしたりしていた。キーボードのマイケル・ジョーゲンセンは自身のソロプロジェクトに力を入れた。

 

 ジェフは前述のソロアルバム2枚に加え自伝を出版し、他のミュージシャンたちやTVスター、コメディアンたちと出版記念ツアーをやって好奇心を満たした。

 

 「俺はいい俳優じゃないんだ」とジェフは出演した番組「Portlandia」「Hearts Beat Loud」「Parks」「Recreation」を振り返り、次のシーズンにゲスト出演することが噂されている「Curb Your Enthusiasm」を思い浮かべながら楽しそうに笑う。「演技の勉強なんて全然やったことないし。だから今こうやって、カメラの前で自分自身を演じることができる、少なくとも違う名前の自分のふりをしてる、って評判なんだ。自分では楽しみにしてる。でもまだ限界までめいっぱいチャレンジしたわけじゃないけど。ほとんどは、50年代の葬式の喪主みたいにちょっと演技していただけだよ。とても時間がかかってたんだけどね」

 

 ネルスはメディスキ・マーティン&ウッドと同じ事務所だ。彼は活動休止中、ニューヨークのダウンタウンの音楽シーンに頭から飛び込んだ。様々なジャンルのジャズ、ジャム、アヴァンギャルドのミュージシャンたちとコラボし、その合間にPhishのコンサートのブッキングさえもやった。また、ギターの名手ジュリアン・ラージをフィーチャーしたネルス・クライン・4としてアルバムを出し、妻のユカ・ホンダとともに実験的なCUPとしても活動した。

 

 ネルス:「多種多様な芸術的衝撃を享受するのは究極の祝福だよ。後に戻って何かほんの少し違うことをするのもいい。でも皆が自分自身の「声」を持っている。私にとって、それはインプロヴィゼーション(即興)だ。前もって計画を立てないからすべてのことに「Yes」と言うことができるし、演奏しているあいだ常に自分自身を発見することができる。単純に、演奏するのが好きなんだ。でもウィルコの皆にはとても会いたかったよ。ただ個人的な友達として」

 

 意図したものではなかったが、ウィルコのメンバーはオルタナカントリーの創始者だったUncle Tupelo(の燃え殻)時代から、バンドの歩みに合わせてまるで回転ドアのように「入っては出て行く」を繰り返してきた。だが、2004年以降は固定メンバーを維持し続けている。これはバンドとしては大変な偉業だ。同じ年にウィルコはクラウトロックに影響されたヘヴィなギターサウンドが特徴のアルバム「A Ghost is Born」をリリース。彼らはこのアルバムでジャムバンドとしてのアンサンブルを重視し、多数のフェスを回ることとなった。それ以来、この6人はウィルコの音を目まぐるしく変化させ続けている。ゆるやかでそよ風のような「Sky Blue Sky」、タイトでパンキッシュな「Star Wars」、そして前作からの揺り戻しなのか風通しのいい「Schmilco」。

 

 さらに、ジェフとメンバーたちはライブもアルバムと同じようにユニークなものにしようと努めてきた。ツアー中にアコースティックセットを入れることで区切りをつけ、シカゴでのスペシャルライブではすべてのレパートリーを演奏し、Solid Sound フェスでの全曲他のミュージシャンの曲をカバーしたセットやファン参加のライブカラオケ等々。しかし彼らの努力にもかかわらず、ある意味でウィルコは彼ら自身の「信頼」の犠牲になっていた。

 さらにインディーロックの「対話性」がヒップホップやサイケデリック、ストレートなポップへと移行していった今日では、彼らのスタイルの変遷は何となく古めかしくて風変わりなものだと感じられ始めていた。(同じような姿勢を持つバンドが再び集まるためのポイントとして「Dad-rock(お父さんのロック)」という名称を自らに付けたバンド自身にとってさえも)。だから、サバティカル(注・主に大学教授に与えられる研究や留学のための長期有給休暇)を取ろうというアイデアが出てきたとき、バンドにとってはちょっとした「再起動」のためのいい考えだと思えたのだ。

 

 「私たちはフルスピードでレコードを出し続けてきた。それにジェフは活動休止の前ですら『皆がウィルコを調べ尽くして消費してしまうんじゃないか』と言っていた。彼は本当に頭がいいんだ」とネルスは付け加えた。「ジェフはとても創造力にあふれている。常に曲を書き、ウィルコとしてレコードを出す。ほんの少し声を変え、違う役を演じて自分を表現する。息子のスペンサーも巻き込んでね。スペンサーも素晴らしいよ。― だから活動休止は、偶然ではあったけれど、私たちにとってはしばらくの間姿を消して世間の注目を集めるいいアイデアだったんだ」

 

(続く)