心はマリー・アントワネット

見たいものが日本に来ない?じゃあ自分が行けばいいじゃない!

LINER NOTES FOR JEFF TWEEDY'S "WARM" (by George Saunders)

2018年発売のジェフ・トゥイーディのソロアルバム「WARM」のライナーノーツを訳しました。書いたのはアメリカの作家、ジョージ・ソーンダーズ。邦訳も何冊か出ています。現在新刊書店で買えるのは「十二月の十日」(岸本佐知子・訳、河出書房新社)と「リンカーンとさまよえる霊魂たち」(上岡伸雄・訳、河出書房新社)。「十二月の十日」は読みました。すごくよかった。(「リンカーン~」も買ったけど積読中です...)読了後「なんかWilcoぽい!」と思って調べたら「WARM」のライナーを書いててビックリ。そういえば、後で読もうと思って忘れてたわ...。「WARM」は日本盤が出てなかったはずなのでこのライナーも公式に訳されたものはないかな、と思って訳してみました。もしすでにちゃんと訳があったら無駄な作業だったかも。でも趣味だからいいか! なんか自分ではうまく訳せたような気がします。

原文は「ニューヨーカー」のサイトで読めます。

 

 

www.newyorker.com

 

 

LINER NOTES FOR JEFF TWEEDY'S "WARM" (by George Saunders)

 

 ひとりの人間が人生のあるステージに到達する―私自身もそこにいるのだが―そのステージとは、すでに子育てに悪戦苦闘(とても素敵な娯楽だ)するのを過ぎ、死について考え始める段階だ。それも、他の誰かの上に起こる抽象的な概念としてのそれではなく、巨大で冷淡な列車が、その瞬間においてさえも、見知らぬ、だが無限の彼方にあるわけではない駅を転がるように出て行くものとして、だ。「今こそ、ついに、幸せになるべきときじゃないのかい?」と世界中が尋ねはじめる。そしてそれに続く複雑な問いかけ―「だけど、こんな世界でどうやって幸せになれるんだ?」と同時に。言い方を変えよう。僕たちは愛するために生まれてきたみたいだけど、ここにあるものはすべて条件付きだ(すなわち「終わり」がやって来る)。「死」という名の巨大なピアノが最終的に僕たちの、いや僕たちだけではなく僕たちが愛するすべての人たちの上に落ちてくる時代に、どうやって生きて行けばいいんだろう?

 このアルバムがその答えだと僕には思える。いや、答えと言う以上に、この質問の正当性に対する肯定だと。このアルバムを聞いた人は、人生に対して慎重であるべきか、それとも人生を楽しむべきかと尋ねるだろう。

 「Yes」とジェフ・トゥイーディは答える。

 

 芸術は何のためにあるのか。長年の間自分に問い続けて、僕はこう考えるに至った。芸術家の役割とは、時間と空間とそして操作盤(コンソールconsole)を通じて、治療や処方薬ではなく、むしろ少なくない「慰め」(コンソレーションconsolation)を提供することなのだ、と。

 ジェフは僕たちの、偉大な、皮肉っぽい、「慰め」を与えてくれるアメリカの詩人だ。抽象的な意味で言っているのではない。彼が演奏しているのを見ていると、アクティブに慰められている人たちの中に自分もいることを発見する。心を動かされ、不安を取り除かれ、君は正しいと保証してもらい、自分は聴覚で感じるダイナミックな友情の一部になっている、と。かつてジェフは僕にこう言ったことがある。彼がリスナーに伝えようとしていることは、「君はだいじょうぶだ。君はひとりじゃない。俺は君のために歌ってるけど、それと同時に君の声を聞こうとしているんだ」ということなんだ、と。2016年から2017年にかけて数多くのアコースティックライブを行った後、彼はオーディエンスに最もダイレクトに語りかける歌を集めたアルバムを作ろうと決めた。ジェフが彼らとのつながりに見出している価値の証拠として。

 

 「WARM」がそのアルバムだ。

 

 偉大な芸術とは、実際のところ、偉大な人間性が凝縮されたものでしかない。ある人間のエッセンス―その存在の確かなフレイバーとともに流れてくるかすかな音のようなものだ。僕はデヴィッド・フォスター・ウォレスやグレイス・ペイリーやトニ・モリソンのような作家に会ったときそういう印象を受けた。長年のハードワークが彼らの中にある個人的な「何か」を精製して作品の中に注ぎ込む。それは彼らの個性とともに注入されるのだが、その後作品として発展し、普遍的なものになる―そういう感覚だ。僕はこの感覚をジェフと彼の音楽に対しても感じている。あらゆる芸術の形態における独自のスタイルの本物のしるし、ほんの何秒か接するだけで、その作品が誰のものなのかわかる。「WARM」を5秒聞けば、これはジェフだ、とわかる。たとえばギターの音で(このアルバムの音楽的な心臓は1930年代のマーティンD-18。すべてのウィルコのアルバムで、たとえほんの少しにせよ聞くことができ、このアルバムの全曲に使用されている)。そして、あの素晴らしい声で―フレンドリーで(だが手強く)、優しくて(にもかかわらず疑い深くて)、鋭い(でもあたたかい)。しかしそれだけではなく、なにかもっと本質的なもの―ひとたび曲が始まったら、音のない、いわゆる「間(ま)」においてさえ存在する、長年彼の歌を聞き続けて僕の精神の力強い構成要素となった、あの特徴的な「ジェフらしさ」、それによってわかるのだ。

 

 もう長いこと、僕たちの文化は、芸術の効用とは警告し、非難し、批判し、冷笑し、却下することだと考えてきたように僕には思える。確かにそれらは芸術の効用の一部だ。だがそういうことしかしない芸術は、非建設的―破壊的なものだ。破壊は、すでに僕たちの世界の支配的なモードだ。でも、もうたくさんだ。「その家を焼き尽くせ!」と扇動する奴は燃えている家の中にはいない。絶対に。僕たちが真実生きるために必要なものは何だろう? 僕たちの人生―僕たちの本当の人生は、ほとんど全面的に「優しさへの試み」からできている。僕たちは愛する人々のために一生懸命働き、彼らの幸せを夢見て、たとえどんなに小さい痛みからでも彼らを救うために道を踏み外し、彼らがその痛みを感じたら楽になれるようにする。

 

 僕の考えでは、ジェフは「優しさの戦士」だ。彼は「優しさ」を「ロックンロールの悪徳」にして僕たちが受け取りやすいようにした。僕はニューエイジ的な意味で「優しさ」と言っているのではない。たとえば誰かが君の頭に釘を打ち込んだら、君は手のひらを重ねてわざとらしく深いお辞儀をしながら「新しいコート掛けを作ってくれてありがとう」と言う、みたいな。そうじゃない。トゥイーディ流「優しさ」は、洗練されていて、タフで、可笑しい。強さと良質のユーモアから生まれ、怒りや困難や苛立ちを妨げない。君は彼と同じように「リアル」で、注意を払われるに値する。そしてこの世界は僕たちの豊かな、恐れを知らない興味で満たされている―そういう前提のもとに生まれてきたものだ。そして実際にそうなのだ。

 

 詩人とは、言葉どうしを反応させ合える人のことだ。言葉の意味と響きは親友だと信じて、互いに働きかけることができるような小さな部屋を作ってやれる人だ。ジェフは、音と一緒にまとめる方法で詞を書く。メロディを見つけるまではハミングしたりもぐもぐ言ったりする。そうすると、その「もぐもぐ」が言葉やフレーズという形を取り始める。自分が言いたかったことは何なのか、辛抱強く待ち続ける間に。これは、かすかなものであれ明らかなものであれ、言葉が持つ意味を思うがままに表出させる、驚くべき繊細なやり方だ。そして僕はどういうわけかファイアーフライ(蛍のこと。シカゴでは僕たちはこう呼ぶ)が輝きを増し、やがて去っていく様子を思い出す。そして僕たちは自分にこう尋ねるのだ。「あれ? 今、蛍を見たかな?」と。

 

 信頼できる確かな詞の花が、10曲の歌という庭に規則正しく芽を出している。それがこのアルバムだ。父を亡くした息子が、彼の妻に、息子たちに、そして父に向けて歌っている。そこには謝罪がある。そして謝罪の鏡に映った双子とも言うべき敵への脅し(「君をそこに連れて行って置き去りにしたい」)や、強い嘆願(「もう一度雨を降らせよう!」)、夢見るような挑戦(「どれだけ多くの自由を僕たちは夢見ることができるんだろう?」)がある。そして、単純な機能を持つ言葉を意地悪く変形させたものも。ジェフの歌は、リスナーにもう一度言葉を愛することを教えてくれる。

 

 「たくさんの歌の道を通り過ぎてきた」とジェフは「Bombs Above」で歌っている。「一番暗い闇から、一番明るい陽光の中へと」と。

 

 この世界で歌にできることは何だろう? そう、君にはわかっている。歌は、人の心を瞬時に開くことができる。歌は、怠惰や傲慢やクソみたいな気持ちから君を抜け出させてくれる。この死に絶えた世界を突然生き返らせることだって、できる。君に(父、夫、息子に、または母、妻、娘に)新たに気付かせることもできる。人生は短く、愛を(たとえそれがどんなものであっても)今すぐに注がなければならない、と。歌は、いろいろなことを、それを作った人のことをも、好きにならせることができる。疲れて、古い慣れ切った気持ちに、まったく新しい何かが現れる。歌がもたらす影響のもとで、人は再び夏の日の子どもになれるのだ。

 

 「WARM」は僕が長年聞いてきた歌の中で最も楽しく、祝福された、影響力のある歌を集めたコレクションだ。親密で、だが果てしなく広大で、どこか特定の場所に(コンピュータの中ではなく)実際に存在する人たちによって、愛をこめて作られた感じがする。このアルバムを聞きながら、僕はこんな想像をしていた。どこか森の中にあるしっかりとした小さな小屋(シカゴの森の中かな?)。大きな黄色い月の下、そこには4~5人ジェフがいて、全員が違う楽器を演奏している。ドラムはスペンサーだ。スージーとサミーもそこにいて、暖かい火が燃えていて、煙っぽい空気の中には愛と、発見と、好意の感情が漂っているのだ。

 

 そして僕は思うのだが、そこには2017年に亡くなったジェフの父親、ボブ・トゥイーディの魂もいる。ジェフが言うには、彼の死は「ほとんどすべての人間が申し込んで契約するような死」だったそうだ。つまり、いわゆる「いい死に方」だった、ということだ。家族はその最期のときに間に合わないかもしれないと懸念していた。でも彼らは間に合った。そして彼は愛に包まれて旅立った。全員がこの深遠な機会に立ち上がり自然に歌が歌われたのかもしれない。それは誰でもが迎えることができる形の死ではなかった。でもジェフの父親は、その不思議な、誰もが大いに望む祝福を迎えることができた。愛する人がその人生の最期に「堂々とした威厳のある旅立ち」という慈愛に満ちた贈り物を受け取るのを見ることは、世界をどのように見るかということにどれだけ強い影響を与えうるだろう? そして僕がこのアルバムを通じて見出したのは、こんなことが起こり得るのだという感謝であり、喜びですらある。死は、人がそれを恐れるのと同じくらい、実際には何も否定しないし、極めて本質的な何かである、という悟りに対する驚きとともに、僕はそれを感じたのだ。

 

 「ああ、僕は天国なんて信じない」と、このアルバムのタイトル曲でジェフは歌う。「僕は自分の中にある熱を持ち続けている。夏の赤いレンガみたいに。太陽が死んでしまっても暖かく」と。赤いレンガとは何だろう? それは僕たちだ。君と、僕だ。そして、ジェフでもある。その暖かさはどこから来るのだろう? 愛と、好奇心と、前に進もうとする欲望を注ぎ込むことで、一瞬から次の一瞬へと、今この瞬間でさえも僕たちを生き続けさせるこの神秘的なものは、いったい何なのだろう?

 

 「そのとおり」とジェフは答える。