心はマリー・アントワネット

見たいものが日本に来ない?じゃあ自分が行けばいいじゃない!

Pitchfork Jeff Tweedy & Spenser Tweedy Interview October 2020 (by Quinn Moreland) その2

ピッチフォーク:一緒に働くのは難しいと感じたことはありますか?

 

スペンサー:僕にとって最大の障害は、僕は創作物についてとても大切に思っていて不安も感じているということなんだ。父さんと僕は長い間ずっと一緒に作品を作ってきた、そして僕は作品がどのようにして作り出されるかとか、自分たちにとって正しいものが作れるのかとかいうことについて少し神経質なところがあるんだ。だからリラックスするのを学ぶことは僕にとって成長する上での大きな部分を占めていた。父さんと僕だけではなく家族全体でやることに関しては、特にインスタグラムのショーについては、僕たちは今までいつもやってきたのと同じことをやっているんだ。それは、自分たちの感情について話す、ということだよ。

 

ジェフ:俺が理解できないのは、親が子どもに対して、自分たちは何でもわかっていていつでも大丈夫、みたいに体裁を繕うことだよ。子どもに安全で守られていると思わせたいのはわかるんだけど、もし親が子どもに、親だって悪戦苦闘してじたばたしてるんだ、ってことを見せなければ、子どもたちにいつか必ず訪れる、人生の苦しみを感じるときが来たら、彼らは「自分は人より劣っている」とか「こんな苦しさを感じるなんて自分は正常じゃない」とか考えてしまうんじゃないかと思うんだ。(親が見せなければ)子どもは、誰かがそういう感情をうまく処理してなんとかやっていく例を見ることができないだろう。多くの親が子どもに伝えている非常に問題のある感情だと思う。この、「自分は『強い父親』であるという理想に合致している」という「不安」はね。

 

スペンサー:それどころか、父さんはそれとは正反対の育て方をした。ほとんど、本当に低いハードルを設置した、みたいな感じ。悪い意味ではなくて。でも父さんは気持ちが落ち込んでいるときはいつもとても正直だったから、ときどきサミーと僕は「ああ、僕たちは大丈夫だ」って気持ちになれたんだ。

 

ジェフ:「うまくやれるとはとても思えない...」なんてところを二人に見せた覚えはないけどなあ。

 

スペンサー:うん、そういう感情を正直に見せるのと、僕たちが父さんの面倒を見て問題を解決しなきゃ、って気持ちになるのと、紙一重のところだったよね。父さんはそうしないように用心していたけど。

 

ピッチフォーク:ジェフ、あなたはスペンサーから何を学びましたか?

 

ジェフ:成績評価がBだったからと言って嘆く子どもをなだめる、なんて、子育てというゲームで俺に配られたカードには書いてなかったはずなんだけど、スペンサーはいつもそうだったんだよね。つまり、何かをやりとげようという気持ちがものすごく強いんだよ。スペンサーといると、もっといい人間になれるよう一生懸命努力しよう、という気持ちに皆がなってしまうんだ。なぜなら、彼は俺が知っている中で一番素晴らしくて思いやりがある人間だからなんだ。妻と俺はいつも、スペンサーは俺たち二人よりよくできた人物だし、どうしてそうなったのかわからないね、と冗談交じりに話してる。彼は本当に素晴らしい高潔な人格の持ち主で、いつもほかの人のことを一番に考えていて、自分を第一に考えるのがとても苦手なんだ。また、スペンサーは信じられないくらい新しい感覚を持ったミュージシャンでもある。だから彼が俺の曲でドラムを叩き始めてから、俺の意識はかなりリズムの面へとシフトしてきている。以前よりも正しいテンポで演奏できるようになったと思うんだ。俺たちの演奏スタイルは基本的にアンプを通さないやり方で、手と指で作る音楽を聞く親密な感覚はASMR(注・ Autonomous Sensory Meridian Response自律感覚絶頂反応。それを聞くと気持ちが良くなる心地よい音。咀嚼音、PCのキーボードを打つ音、耳かき、焚火の音など)・フォークミュージックみたいなんだ。

 

ピッチフォーク:スペンサー、皆に愛されているアーティストの息子として、インポスター・シンドローム(注・成功体験から自信を得ることができず、これまでの成功は自分の力ではなく運が良かっただけと自己を過小評価する傾向)をコントロールしようと思ったことはありますか?

 

スペンサー:もちろんあるし、今でもそうだよ。『Mirror Sound』の最後の方に、エンジニアとアーティストの対立について、頭を使った知的な作業とクリエイティブで感覚をベースとした作業の相互作用について語っているパートがあるんだ。僕のインポスター・シンドロームは主にこの二つの要素がぶつかり合っていることから来ている。僕は部屋や作業場所をいつもきちんと片付けてちゃんと管理していたいんだけど、そういうのって整理整頓にまったく無頓着、っていうアーティストのイメージには全然合わないよね。レティシア・タムコ(別名ヴァガボン)みたいな、数学や科学技術をバックボーンとして持っている人たちは、そういう正反対に見えるものを両方とも楽しめばいい、ってアドバイスしてくれるんだ。

 

ジェフ:皆がアーティストや、アーティストに限らず自分がこうなりたいという対象を想像するとき、たいていは自分の外側に存在するものを想像する。でももし内側に目を向ける方法を発見することができたらとても有益なんだ。自分がそういう存在である、と想像した方がいい。人生のある時点で俺は考えが変わって、プロデューサーを雇うより自分でプロデュースした方がいいと決断した。俺は歌手になる道の途中でより大きなヴィジョンを持ったとき、その中でOKだと思えるような人物になれるよう自分自身を鍛えなければならなかった。思慮深くもなければ思いやりがあるわけでもない他人の意見は受け入れない、と決めたとき、俺は作品を作るのがずっと楽になった。

 

ピッチフォーク:ジェフ、息子さんたちが音楽に興味を持ってその道に進もうとしたとき心配しましたか?

 

ジェフ:彼らに思いとどまらせようと思ったのはひとつだけだった。音楽を奏でるという神様に与えられたすばらしい贈り物よりも、金持ちになるとか有名になるとかを重要視する、ということだ。もし彼らがそうしようとしたら俺はこうアドバイスしたと思う。それで金が稼げるかどうかよりも、音楽が人生においていつでも自分を助けてくれる、という面に焦点を定め直すべきだ、と。俺自身はこの理論を試したことはないけどね。だって今現在、音楽でたいして稼いでないんだから。でももし今みたいにうまくいってなくても、人生に音楽があることに本当に感謝したにちがいない、と信じてるよ。

 

スペンサー:父さんはそういう考えを僕とサミーに完璧に叩き込んだ。だから僕は曲を作ろうと座って作業しているときに、もしもどういうわけか野心的なことが他のことより優先されようとしてると感じたとしても、そうしないだろうと思う。その時々で、この両方が誰の心にも存在するんだ。自分の音楽を人に聞いてもらいたいとか買ってほしいとか全然考えない神様みたいな人でもない限り。

 

ジェフ:正直なところ自分の音楽を皆に理解してもらいたいのは事実だよ。人に聞いてもらうために全力を尽くすべきだと思う。「〇〇するな」と言う俺の声がおまえの頭の中で聞こえる、なんてことは望んでない。

 

スペンサー:いや、それよりももっと、音楽そのものに純粋にはまり込んでいるのでなければどんな音楽もやりたくない、って言うか。それは僕が父さんから学んで自分のものにした知恵だよ。

 

ピッチフォーク:ネットでは、ジェフが自分の父親だったらいいのに、と言っている人がたくさんいます。スペンサー、それについてどう思いますか?

 

スペンサー:とても嬉しいし、素晴らしいと思う。父さんに対する皆の認識がかなり正確だってことだよね。僕が気になるのは、父さんのことをすっかり誤解して、性格が悪いとか気難しいとか思う人がいることなんだ。そういう人たちは父さんがステージで演じている、ジョークでやってる人格とまちがえてるんだと思う。でも本当にレベルの違う勘違いをしてる人もいて、彼らはたぶん父さんとバンドのメンバーたちとの神話的な架空の物語を信じ込んでいるんだと思う。そういう食い違いがあると単純にがっかりしちゃうんだ。

 

ピッチフォーク:私はこのインタビューで「dad-rock(親父ロック)」という発想を取り上げることを法的に要求されているような気がします。この言葉が一般的になったのは、ピッチフォークでの「Sky Blue Sky」の否定的なレビューが発端なのですが、そこではdad-rockと呼ばれるジャンル、つまり家庭が第一で、安心できて、ほんの少しメロウな、そういう特徴を悪いことだと示唆していました。ジェフ、あのレビューを書いた男性が、あの言葉を使ったことを後悔していると書いた最近のエッセイを読みましたか?

 

ジェフ:うん、読んだよ。半分は謝罪してたけど、完全なmea culpa(注・ラテン語で「私のせいで」を意味し、自分がまちがっていたと認めること)ではなかったね。正直に言えば、くだらないことだよ。

 

ピッチフォーク:最近では以前よりも、そのようなお父さんのように心が優しい性質は一般にポジティブにとらえられているような気がします。そしてあなたの最近の作品では、アーティストは興味を持ってもらうためにはひどく苦悩したり不摂生な生活をしなければならない、という神話を解体することに取り組んでいますよね。

 

ジェフ:これまでは素晴らしく美しい芸術は悲惨な境遇の人によって生み出されることが多かった。それに芸術そのものについて語ることは、その背後にいる個人について語るよりずっと難しい。文化として、俺たちは個人のひどい性格や特性と芸術的な価値をごちゃ混ぜにし始めたんだ。このことについて俺はいつも困惑している。俺は実際ドラッグ中毒になったけど、ドラッグがロックと深く結びついている、なんて考えは大嫌いだ。はっきり言って不愉快だね。俺は人に何をすべきだとか言うつもりはない。でもドラッグをちゃんと取り扱うことができない人はたくさんいると直感的に思うんだ。かつての俺みたいにね。

だけどライターにとっては、芸術はそれ自体に意味を持たないと考えると芸術そのものに意味を見出すことが難しいから、長い間アーティストの方に焦点を当ててきたんだ。そして想像力が不足しているためにそれがライフスタイルやカルチャーになり、アーティストの個性や人格が芸術なんだという考え方が形成された。でもそうじゃないんだ。「芸術そのものが限りなく自由であるべきだ」という考えが革命的なものであってはならないんだ。もし君がアーティスト個人に焦点を当てようとするのなら、ある種の軽率さや破綻した人格というような性質を強調するのではなく、充実した人生を生きるために彼らの洞察力や本質を見抜く力をシェアしようとするのは全く問題ない。俺にはそれは全くまともだと思えるし、どうだっていいんだ。だって俺はこの件について正直であることが画期的だと思うから。

俺は、芸術や創造への道は誰にでも開かれている、という考えが好きだ。どんなに壊れているかとか、依存症だとか、堕落しているか等の基準はない。それが人間の一番いいところだ。芸術や創造に対する欲望を満たしてそれを手に入れたら、人生はいい方へと向かっていく。その方がいいだろう? そのことについて語るのは難しいかもしれないけど、そうした方がより好ましい結果になるんじゃないかな。つまり、心がそんなに壊れているわけではないけれど、壊れた部分を通じて他の人たちをもっと全体的なものへ導くことができるような人が増える。それはすごく素晴らしい生き方だと思う。

 

(終わり)