心はマリー・アントワネット

見たいものが日本に来ない?じゃあ自分が行けばいいじゃない!

Berklee Online Glenn Kotche Interview (2016) 追記

昨日UPしたグレンのインタビュー、訳しながら思ったこと。

 

・インタビュアーが「Wilcoにはグレン以外に楽譜が読めるメンバーがいない」と言ってますが、他のメンバーが全く楽譜が読めないわけではなくて、程度の問題ではないかと。以前訳したインタビューで、グレンはケンタッキー大学でオーケストレーションの授業を取った、と言ってましたが、これは曲をオーケストラで演奏するために編曲して各楽器の譜面を書く技術とのこと。このインタビューで言ってる「楽譜が読める」というのはこのレベルのことではないかと思います。なにしろバークリー音楽院だし。それからアメリカの大学は芸大や音大でなくても音楽専攻の学科があるものなんでしょうか。それともそういう学科があるからケンタッキー大学に行ったのかな。

 

・「グレンのようなミュージシャンがWilcoの初期の曲で単純なエイトビートを叩くことに満足していられるのか」という質問について。

いや、ちゃんと注意を払って聞けば「単純なエイトビートを叩いて」なんかいないですけど! と、ちょっと不満に思ってしまいました。基本はシンプルなビートでも何かしら工夫してちょっと外したり他の要素を入れたりしているし、グレンだけじゃなく他のメンバーも、同じ曲を演奏してもいつも同じではないです。You Tubeでいろんな時期のライブを見比べると、常にアレンジが少しずつ変わっているし。

いつもライブの映像を見て思うんだけど、配信する時に有料でもいいから、最初から最後までグレンだけを映したバージョンを作ってほしい! できれば前後と横から映したやつを。「あ、なんか面白い音が聞こえる。グレンは何をやってるんだろう? どうやってこの音を出してるんだろう?」と思うことが多々あるので。実際にライブを見てるときも、ドラムセットは後ろにあるから見えないんですよね~。「最初から最後までネルスだけ」バージョンもあったらきっと売れると思うんですけど。ペダルやアンプ、ループ、ラップトップ等の機材もしっかり映して、どうやってその音を出しているのか全部見れるの。

 

・ジェフとグレンが知り合った頃のエピソードがいろいろ好きなんですが、きっと当時のジェフはグレンのようなタイプのミュージシャンと初めて会ったんだろうなあと思います。ジム・オルークとの出会いもだけど、ビビビと化学反応が起きてもう元には戻れない、的な感じ。私は「Kicking Television」からのファンなので、当時のWilcoをリアルタイムで見れたらよかったのにと思うけど、知らなかったからこそ見えるものもあるかもしれないという気もしますね。

Berklee Online Glenn Kotche Interview (2016)

バークリー・オンライン(バークリー音楽院ポッドキャスト)で放送されたグレン・コッチェのインタビューの翻訳です。媒体の性質上、グレンが受けた大学での音楽教育と、それを現在の仕事にどのように活かしているかがメインの話題になっています。少し長いですが、キリがいい形で二分割できなかったので一気にUPしました。

 

元記事に日付が入っていませんが、文中に「もうすぐ『Schmilco』が発売予定」とあるので2016年の夏ではないかと思います。音声と文字起こししたものが同時に見れるのは嬉しい。リスニング教材にも使えそうです。

 

online.berklee.edu

 

 バークリー・オンラインのポッドキャスト、最初のゲストはグレン・コッチェ。ウィルコのドラマーとしておなじみの彼が、最初のドラムセットを破壊した3歳のときに始まり、エクスペリメンタルのソロ作品を発表しジェフ・トゥイーディと共に演奏するようになった現在まで、その全てを語ります。

 

(ホスト:パット・ヒーリー)バークリー・オンラインがお送りする新しいポッドキャスト「ミュージック・イズ・マイライフ」へ、ようこそ。ホストのパット・ヒーリーです。番組を聞いてくれてありがとう。この番組では、ミュージシャンがどのようにして自身が演奏する楽器を選んだか、から始めて、音楽が毎日の生活となった現在に至るまでの彼らの音楽的変遷をたどっていきます。今日のゲストはグレン・コッチェ。皆さんはきっと彼のことを本職であるウィルコのドラマーとしてご存じかと思いますが、彼は現代音楽の作曲家でもあります。ボストンでのソロコンサートの前に彼にインタビューしました。グレン・コッチェが皆さんを彼の音楽的キャリアへとご案内する前に、いくつか説明しておきましょう。2001年に彼はケン・クーマーに代わってウィルコのドラマーになりました。それ以前はウィルコのリーダーであるジェフ・トゥイーディ、プロデューサーのジム・オルークと共にルース・ファーというプロジェクトに参加していました。ルシファーじゃなくてルース・ファーですよ!…すみません、オヤジギャグが好きなもので、

 

さて、コッチェが誰と演奏していたかを聞いて、思わず「ウィルコ・シュミルコ」とつぶやいた方、あなたは、「A:とても無作法かつ冷淡で、時代遅れな表現を好む人である」もしくは「B:ウィルコが9月9日に『ウィルコ シュミルコ』というニューアルバムを出すことにちゃんと気がついている」のどちらかですね。これは彼らの10枚目のスタジオ録音アルバムで、コッチェが加入してからは7枚目のアルバムになります。しかしこの「ウィルコ・シュミルコ」ビジネスに巻き込まれる前、彼はケンタッキー大学で音楽を専攻し、その前はイリノイ州ロゼールの高校でマーチングバンドのドラムライン(注・パーカッションによるアンサンブルセクション)に所属していました。でもそれよりもっと前、グレン・コッチェの音楽生活はこのように始まったのです。

 

コッチェ:初めてのドラムをめちゃめちゃに壊した3歳の時からずっと、「僕はドラマーだ」と確信している。その後10歳でドラムのレッスンを始めた。でも実際のところ、家で練習して通りを行ったり来たり行進する高校のマーチングバンドをやりながら、僕が最初に大きな影響を受けたのはジーン・クルーパだった。うちの家族はよくウィスコンシンで休暇を過ごしていて、シカゴから車でドライブして行ったんだけど、途中のドライブインで古いジーン・クルーパのカセットを売っていたんだ。そう、彼は「ドラムソロの父」なんだよ。ベニー・グッドマン楽団の「シング・シング・シング」のドラムソロが有名で、僕はよく聞いていた。そこから始まって、僕には5歳上の兄がいたから、ビートルズもよく聞いていたし、エルトン・ジョンも聞いていた。当時ラジオでかかっていた音楽は何でも聞いたよ。グレン・キャンベルとかね。そうやってたくさんのいろんなドラマーの演奏を聞いて、その後すぐにジョン・ボーナムブラック・サバス、もっとたくさんのメタル系のドラマーに夢中になった。高校生の頃は80年代だったから、ラッシュのニール・パートやスチュアート・コープランド、それからリヴィング・カラーや、もちろん大学ではジャズドラマー全般も。大学卒業後は世界中のもっと知られていないドラマーも聞いてきた。

 

ヒーリー:コッチェは学校で音楽を学んだことで「耳を開いた」と語っています。そしていくつかの扉も開くことになったのです。大学で打楽器演奏の学位を取得したことは、現在彼がいる場所にたどり着くためには不可欠でした。たとえウィルコが、彼以外に楽譜の読めるメンバーが一人もいない、そんなバンドだったとしても。

 

コッチェ:僕が受けた音楽教育、幼い頃からの学校の授業の成果を思い出してみると、マーチングバンドや中学でのオーケストラもだけど、それだけじゃなくて、10歳の頃に初めてのロックバンドを組んだんだ。だから僕はずっと何らかの形でロックバンドをやってきたわけだけど、クラシックのパーカッションの学位も持ってるし、バンドと並行してもっとアカデミックな環境でもずっと演奏していたんだ。これは、特に今やっていることにすごく役に立っているし、ある種の影響を与えている。今まで学んできたパーカッションの全ての分野が、ドラムセットに対する僕のアプローチを決定づけているんだ。なぜなら、パーカッションというものは、他の伝統的な楽器とは違って、「ひとつの」楽器ではないんだ。「パーカッション」は、あるカテゴリーのたくさんの楽器の総称で、進む方向はとても多様だし、一つ一つの楽器の演奏についても本当に様々なスタイルがある。いろんな種類のことを大量に学ばなければならないんだよ! 僕は大学で4本のマレットを使うクラシックのマリンバを学んでいた。オペラの伴奏をするオーケストラのティンパニも学んだ。アフリカの太鼓やスティールドラム、バンドドラミング、つまりビッグバンドジャズのドラムもやった。ラグタイムのドラムもね。ありとあらゆるものを。20世紀の音楽の、多種多様な、世界中のパーカッションを! これらすべてを学んだことが、現在のドラムセットに対するアプローチを決定した。大学を卒業したとき、こんな風に思ったんだ。「うーん、そうだな…、僕はジャズの、ビッグバンドのドラマーとしてはベストではないな。でもロックをやるのは大好きだ。だけど他にも…。でもオーケストラではもうやりたくないかな」って。だから僕は、学んだ分野を全部取り入れて、そのすべてのテクニックと楽器とコンセプトを使い始めた。リズムやグルーヴに関することだけじゃなく、ドラムセットの演奏に関しても。それは音色や音の感触に関することでもあった。そして僕は、マレットで音階のあるパーカッションを演奏することができる、デジタル・パーカッションも演奏できる、ちょっとした小細工的な装飾音を入れてアクセントをつけたりもできるし、シンプルなビートをキープして叩き続けることもできる。そういうわけで、その頃僕はそれまでのレッスンやアイデアやコンセプトをすべてドラムセットに適用して、ロック以外の分野で学んだパーカッションをドラムに取り入れてみた。そうすることで自分の個性や自分なりの表現方法を持ち始めていたんだ。ジム・オルークやジェフが僕に興味をもったのはその頃で、ジェフが僕をウィルコに誘ったのはそういうところが大きな理由だったんだと思う。ちょうど彼らは「ヤンキー・ホテル・フォックストロット」のレコーディングに入っていて、今までとは違う方向へ進む岐路に立っていたからね。それに僕は、当時ギターのエフェクターやコンタクトマイク(注・楽器に直接取り付けて使う小型マイク)を使ってリズムの全くないフリー・インプロヴィゼイションをやっていたから、少なくともあのアルバムにはそういう音が必要だったんだと思う。だから、そういうことが僕にとってはすごく役に立ったから、学生たちに教えるときは、今までもたくさんの学生にそう言ってきたんだけど、楽譜を読むスキルを身につけるよう勧めている。僕にとっては本当に素晴らしく大きな「道具」だからね。

 

僕は何か演奏を聞いたらそれを記憶にとどめておくことができるし、もしそうしろと言われたら10分後にその通りに演奏することもできる。それができない人がいるということは知っている。彼らは音を聞いたらそれをその場ですぐに演奏するしかない。僕は自分のその能力をとても素晴らしい「道具」だと思うし、同時に、今やっている多くのこと、室内楽やオーケストラやパーカッションアンサンブルのための作曲みたいなことにおいては明らかに重要な「鍵」なんだ。他の多くの人にとってはそんなに重大なことではないだろうね。僕はたくさんの素晴らしいミュージシャンを知っている。彼らは本当に、信じられないくらいクリエイティブだ。楽譜は全く読めないし演奏法を正式に学んだこともなく独学で覚えたのに、熟練の境地に達している。往々にして彼らはある種の音楽的な個性の持ち主で、それは本当にオリジナルなものなんだ。真実すごいと思うよ。それは彼らの「声」なんだ。でもさっき言ったように、僕はものすごく勉強して、彼らとは違うやり方でその地点にたどり着いた。だから、何かを学び、習い、教師に教わっても、学んだことと全く同じことをやる必要はない。それは自分が何者なのかを発見するための「道具」にすぎない。どちらのやり方でもかまわないんだ。

僕が人に、特に若い人たちに(楽譜を読むスキルを持つことを)勧めるのは、現在自分が学んだことを実際に仕事に役立てているからだよ。現実問題として、多くの若いパーカッショニスト、若いミュージシャンにとって、楽譜を読む能力があればより多くの仕事を受けることができて、希望する仕事を取ることができて、大きな成功を収められる。だから僕にとっては重要なことだった。でも、そうだな、僕は教育を受けられるチャンスがあったのを貴重なことだったと思っている。誰にでもその道があるわけじゃない。それは理解している。

 

ヒーリー:「一緒に仕事をする相手に求めるのは、必ずしも音楽的な技術というわけではない」とコッチェは語っています。

 

コッチェ:一緒に仕事をする相手に関して言えば、僕が一番に求めるのは創造性だ。好奇心や創造への渇望を持ち合わせていることだ。楽器が上手でなくても大した問題じゃないけど、もし彼らが面白いアイデアを出してくれるなら、そういう人が、一緒に演奏したい、この人に曲を書きたいと思える相手だ。それが一番重要だと思ってる。半端なく凄い演奏をするミュージシャンはたくさん見てきたし、それは素晴らしいと思う。大好きだし、まじまじと凝視してしまう。ときには自分でもそういう演奏に熱中する。でも、今まで誰もやらなかったことをやる、それこそが僕が一番エキサイトすることなんだ。文学でも、アートでも、視覚芸術でも、演劇でも、ダンスでもね。それから料理も。「彼ら、シェフたちは、食べ物のことをどういう風に考えているんだろう? 人類は300年以上この料理はこう、ってやってきたのに、どうやって突然こんな新しいやり方を考えだしちゃうわけ?」って。音楽も同じだよ。そういうときは、何というか、僕は俄然オタクモードに入っちゃうんだ。つまり僕は「音楽オタク」って言うより「クリエイティブオタク」みたいな、そういう人をこそプロとして求めてるんだ。

 

ヒーリー:コッチェが大学を卒業してプロになり、初めて出会ったドラマーの一人がヴェルヴェット・アンダーグラウンドのモーリーン・タッカーでした。技巧よりも、何と言うか、シンプルさで有名なミュージシャンで彼女以上の人を見つけるのは難しいでしょう。そう、燦然ときらめくシンプルさ、本当に。

 

コッチェ:大学を出てすぐにモーリーン・タッカーがプロデュースするレコードで演奏できたことは、本当にとてもラッキーだった。彼女とツインドラムでプレイして、大局的な視点から大学で学んだことの全てを眺めることができたパーフェクトな経験だった。彼女は音楽の専門教育を全く受けていない人で、それでもやはり、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの全てのレコードである種の「完璧ではない」演奏をしていたから。彼女は、ときにはドラムを叩き、ときには2拍目と4拍目でタンバリンを叩くだけ。その演奏が全てをコントロールする。素晴らしいレッスンだったよ。最初に大局的な視点で音楽全体を見渡すんだ。単に「何を付け加えていくか」ではなくて。

僕が何に影響を受けるかは常に移り変わっている。そのことについて語ろうと思ったら優に15分間は立て続けに名前を挙げてしゃべり続けちゃうよ! ドラマー以外、音楽以外の影響についてもね。いろんなアイデア、マネしたいと思うような影響を受けた視覚芸術もたくさんある。彼らはどうやってこれをやってるんだろう? 僕がやっていることに応用するためにはどうすればいいだろう? 凄いと感じるものに出会ったら、彼らはどんなふうに発想を飛躍させたのか、どうにかして僕がやっていることに応用できないだろうか、ってあれこれと考えて自分に問いかけるんだ。

 

ヒーリー:実際にコッチェのドラム演奏にはかなり「発想の飛躍」があります。彼のドラムセットを見たら、ラジエーターやホイールキャップ、水道の蛇口などと格闘する羽目になるかもしれません。私はある細長いものを発見し、それが何だかわかったので彼に尋ねざるを得ませんでした。

 

コッチェ:あれは果物かごだよ。

 

ヒーリー:…OK。

 

コッチェ:結婚祝いにもらったんだ。

 

ヒーリー:本当に?

 

コッチェ:うん。ゴムバンドでコンタクトマイクの上に吊るしてなければつまらない音しかしないけどね。パーカッションのクールなところは、他の楽器、木管金管、弦楽器や声と違って、どんなものでも「パーカッション」に含まれてしまうってことだよ。そうだろ? つまり、それらの「定義された」楽器以外のすべてのものが「パーカッション」なんだ。少なくとも僕はそう定義している。オーケストラでは昔からこんな感じだよ。「OK、この作曲家はこの音を大砲の音として描いてるんだな。この音は教会の鐘、こっちはピストル、いや風車かな? 誰にこれを演奏させようか…。パーカッションのパートに放り込んどけ」みたいな。

 

そして、ジョン・ケージみたいな人たちも、ハーモニーとメロディをベースとしない音楽的アイデアを探求するのと同じくらい、パーカッションを完全に自由なものにしたんだ。彼はブレーキドラム (注・自動車のブレーキに使われている部品を楽器に転用したもの。YouTubeの演奏動画にリンクしています)やブリキ缶を音楽に取り入れた。ほとんど80年前だよ。すごく革新的なことだったんだ。それ以降は、ドラマーは皆こんなふうに感じたと思う。「うん、この辺のものって、どこの音楽学校や大学のパーカッションスタジオにもあるよね」って。そして、どんなものでもパーカッションとして使えるんだ、って。こういうものに関しては、僕はすごく、バカみたいに熱中しちゃうんだ。僕の妻はすごく寛大だと思うんだけど、僕は今でも、いつも何かをじっと見つめては、それが何かを知ることができるんだ。つまり、僕は、どんな材質のものがどんな音を出すのか、十分すぎるくらい知ってるんだけど、それは今までの人生ずっと、何かを叩いて、どんな音がするのか、それが何で出来てるのかを確かめ続けてきたからだよ。そうやってたくさんのものを探求してきたんだ。

 

ウィルコの「アイム・トライング・トゥ・ブレイク・ユア・ハート」という曲があるんだけど、僕がこの曲で使ったものを挙げてみようか。まず古い金属製のホイールキャップに直接コンタクトマイクを付けて、変わった音を出すために少しオーバードライブさせたアンプに通した。それから、ゴムのマレットとマリンバ用のマレットを同時に使って陶器のタイルを叩いた。ピアノの中にジューサーミキサーを入れたり、ときには釣り糸に小さな座金を結び付けたり…。マレットですごく早く叩き続けるみたいな音がしたよ。面白いコラージュだった。この曲はジム・オルークがミックスしたんだ。彼はすべての要素を引き出してこの曲を作った。だってこの曲は3コードなんだよ! そして長さは7分かそこらあるんだ。曲の最後まで、彼は曲の全ての場面を変えて物語性を持たせた。あの曲にはすごくクールな音がたっぷり詰まってるんだけど、今夜僕のソロコンサートで使うドラムセットにも同じくらい素敵な音が詰まってる。結婚祝いにもらった果物かごも持ってきたけど、あれはそんなにいい音がするわけじゃない。でもコンタクトマイクをたくさん使うから、こんな小さな音も他の大きい音と同じくらいちゃんと聞こえるし、ときには、もしマイクを使わず耳で聞こえる音を聞いているだけなら聞き逃してしまうような、音の個性的な側面も引き出せる。つまり、この果物かごは、音は悪いけど、ゴムバンドで吊り下げて鳴らしたらちゃんと響かせることができるし、コンタクトマイクで拾えば和音の基音になる音が聞き取れる。信じられないよね。

 

僕のプリペアド・スネアも同じで、これはジョン・ケージの「プリペアド・ピアノ」の再現なんだ。ヘッドにバネを何本か取り付けたんだけど、大きいバネは爪で引っ搔いて小さいバネは手でスワイプさせるように叩くんだ。それから釣り糸を小さいスティックの周りに巻き付けて、バイオリンの弓に塗る松脂をつけてキーキー言う音を出してる。それから、クイーカ。スティックが皮を通っていてライオンが吠える声がする。この細いワイヤーに蜜蝋を塗ると摩擦が起きてドラムの共鳴も得ることができる。パーカッションって叩くだけじゃないんだよ。この小さい音は大きい音と十分対抗できるんだ。つまり、ギタリストはエフェクターのペダルでいつもやっているけれど、ドラマーだって同じことができるんだよ。そしてコンタクトマイクを使うことでもっと音の世界を爆発的に広げることができる。今夜は普通のクラシックなパーカッションと一緒に警報用のサイレンも使うし、小さいブッダボール(注・ブッダボールで検索するとこれが出てくるんですが違うような。ときどきグレンはドラムセットに小さい木魚みたいなものを取り付けているのでそれかもしれません)やバードコールも使う。アンティークシンバル、グロッケンシュピール、ドラムシンバル、それからスイスカウベルクリケットボックス(注・検索したら「クリケット(球技)のときに使うプロテクター」と「虫かご」が出てきたが、どちらかは不明)も。今夜ステージに持っていくもの、他にあったかな? そうそう、ボトルキャップで作った小さなシェイカーと、いろんな面白いものをたくさん!

 

現代のパーカッショニストは皆、特にクラシックの教育を受けた人は、演奏しなくてはならないすべての「物語」のために、いろんな「違う」音を探求することが求められていると思う。そしてスタジオでレコーディングするドラマーも。たとえば僕はすごくたくさんの種類のスティックやマレットを持ってるんだけど、自分でコインをテープで貼り付けたものとか、テープを巻いたもの、タオルをかぶせたもの…音を変えるためにね。マイクを近づけて録音すると、スティックやブラシやロッドでただ叩いただけでは得られない、ぐっとくるような音が録れるから。

 

ヒーリー:コッチェが加入した頃、ウィルコは4枚目のアルバムを制作中で、率直に言えば「生みの苦しみ」の渦中にありました。そしてこのアルバムはそれまで彼らがやってきたすべてのことからの「出発」となりました。彼らはオルタナカントリーのバンドとしてスタートし、サードアルバムの「サマーティース」でシンセサイザーロックの領域に入りました。私は彼に、全く違うスタイルの前任者がいたバンドに加入し、新しいドラマーという役割を演じるのは難しくはなかったですか、と尋ねました。

 

コッチェ:うん、そうだね。僕が本当にリスペクトして彼の演奏をすごく楽しんでいたドラマーとの何枚かのアルバムという歴史があったバンドに参加するのは興味深いことだった。少なくとも僕はウィルコに対してはこんな感じの態度を取っていた。「もし壊れていないのなら直してはいけない」。それまでの彼らの曲を知っていたし、大好きな部分、愛着のあるところもたくさんあった。だから基本的にはそういう部分はそのまま残すようにした。でも思うんだけど、誰かほかの人が作った音楽を演奏するときは、自然に自分のバックグラウンドや経験を通過させて解釈しているんだよね。だから、ケン・クーマーがやったとおりに僕が演奏しても、そのパートは僕の音になるし、ジェイ・ベネットがやったパートに関しても同じような例がいくつかあると思う。そしてどんな曲でも、僕がレコーディングしたものであっても、時間の経過とともにその姿を変えていくのはよくあることなんだ。僕たちは今まで何百回も同じ曲を演奏していて、その曲を十分に知っている。でもそれはレコーディングされたときと同じ姿ではないんだ。フィルインが違う。やっていることも違う。テンポにも違うエネルギーがある。時間がたつと姿を変えるものはたくさんある。そういうものを見つけたら、閉じ込めて何回も繰り返しやり続ける。僕自身がレコーディングした曲でさえも自然に変化していく。もちろん、僕がレコーディングしたものでなくても、それは起こる。曲の核となるものは変わらずそこにずっとあるけれど、僕の個性、いやそれ以上に時間というフィルターを通って変わっていくんだ。

 

ヒーリー:こんなに実験的で新しいパーカッションサウンドを自分の音楽に取り入れることに興味津々なドラマーが、どうやってロックバンドに適応しているのでしょう? どうやってストレートなエイトビートだけを叩くことに満足していられるのでしょうか?

 

コッチェ:人生にはバランスが大事だよ。仕事、家庭、ロックバンドのメンバーであること、実験的で突拍子もない音楽を演奏する孤独な作曲家であること、シンプルにビートを叩き続けること…。僕はこの全てを人生に必要としているのかもしれない。幸せになるために。それに僕は、いろんな音を探求することや、そこにぴたっとフィットする新しいピースを見つけ出すことと同じくらい、シンプルなビートを叩き続けることを楽しんでいる。だって、歴史上最も成功したドラマーたちは、演奏にあれこれたくさんのものをつけ足したり、たくさんの音を投げ掛けたり、自分ができることを常に全部見せよう、ドラムの演奏能力を見せつけよう、などとはしない。その代わりに、彼らは単に、そうだな、「曲に奉仕する」ってよく言うだろう? うん、「曲に奉仕する」ことは複雑なことなんだよ。突然話を変えようとしてるんじゃないよ。多くの場合、プレイヤーは曲を「気持ちを高めるところ」に持っていこうとする。または、違うところを目指して演奏することもある。

 

でも、ただシンプルに演奏する限りにおいては、僕はそのことだけに熱中する。その曲自体の感覚や、演奏するときにどんなに気持ちが上がる感覚があるかってことだけじゃなく、ウィルコのとてもベーシックなエイトビートの曲を、何百回となく繰り返し演奏すること自体をね。僕はただ、細部に集中しているんだ。ゾーンに入っているみたいに。こんな感じだよ。「OK、こんなふうにハイハットを上下させる代わりに、フランス風じゃなくドイツ風にやってみるのはどうかな? それともスウィングしてみたらどうだろう?」そして僕がスウィングしたら、曲は少しだけ違うように聞こえる。ここの、ハイハットのペダルの支点に圧をかけたら、逆に緩めてみたら、手の甲をひねって返してみたら、腕にもっと力を入れてみたら、曲は違うように聞こえるんだ。でも僕はどれだけたくさんのチップを、どれだけたくさんのネックを、ハイハットを叩くのに使ったかな…?

 

この音を作るために、この感覚を作り出すためには、本当にたくさんの、何千もの要素が絡み合っている。ひとつのリムショットだけでやる方法、その上で何が曲に起こるか、さらにバスドラムを加える、キックペダルのベアリングを変えてみる、演奏してみる、かかとを上げて、かかとを下げて、次はスネアドラム、どんなテクニックを使おう? 僕は今、どこを叩いてる? 僕は今、スティックを根元から持ち上げている? それとも先端から持ち上げている? 集中してやれることがこんなにたくさんあって、こんな感じで曲を探検しているんだ。「曲に奉仕」して歌詞のじゃまをしないようにする、または歌詞の世界を描写する手助けをしようとする、それから単に曲の中に錨を打ち込もうととする、その全てを必要とされるのがドラマーという存在なんだ。他の人とは違うタイプのやり方だと思うけど、僕にはこのやり方がすごく楽なんだ。歌を台無しにしないように、歌を正しい姿にするために何を入れていくかだけを見ていく、という。

 

ヒーリー:ウィルコの曲に奉仕するのに忙しくないときは、コッチェはソロプロジェクトを手掛けています。彼はこれまでに自分の名義でアルバムを4枚発表しています。自分では積極的に音楽のマーケティングに携わっていないけれど、音楽自身にマーケティングをさせている、と彼は言っています。

 

コッチェ:どんな種類のであれ、マーケティングについて僕が言わなければならないことは、僕はマーケティングのことなんて何一つわからない、ってことだよ。いつも僕にとって役に立ったのは、自分が面白いと思ったことをやることで、正直に言ってソロで出したアルバムでお金が稼げるわけじゃない。印税という形で直接はね。でも名刺代わりになってくれるんだ。2006年にノンサッチ・レーベルから「モバイル」を出したら、その後クロノス・カルテットシルクロード・アンサンブル、エイトス・ブラックバード、ソー・パーカッションから作曲の依頼があった。そういうわけで、僕はこの仕事を全部受けて、レコーディングという形でたくさんの仕事の記録になったってわけ。これが僕のマーケティングみたいなものだよ。そう、音楽が僕の名刺なんだ。音楽を作って、人に聞いてもらって、聞いた人が気に入ってくれたら、また別の作品に結びついたり新しいコラボレーションができたりするんだ。

 

ヒーリー:最後にコッチェからのアドバイスです。「練習を続けること。今やっていることをやり続けること。楽しいと思うことをやり続けること。自分自身であること。学び続けること。なぜなら、いつチャンスが巡って来るか誰にもわからないのだから」

 

コッチェ:たいてい、チャンスは誰にでも巡ってくる。その時に備えて準備しておかなければならない。それは明日かもしれない。20年後かもしれない。でも少なくとも僕にはチャンスはやってきた。しかるべき時にしかるべき人と出会い、それが僕をここまで連れてきた。チャンスは何回かあって、そこからすべてが始まったんだ。

 

ヒーリー:いつの日か皆さんにもそんなチャンスが巡ってきますように。ありがとうございました。

『HOW TO WRIGHT ONE SONG』Introduction (Jeff Tweedy)

Jeffの2冊目の本『How to Write One Song』のイントロダクションを訳しました。

 

以前Twitterにも書いたのですが、今まで訳してブログに上げてきたのはネット記事(誰でも無料で読めてAI翻訳で意味も取れるもの)に限っていました。ですが、この本を読んでいた間、ちゃんと訳せばもっと理解できるのになあ、と思っていて、なぜなら辞書引きながらさくっと読んでると、わかった気分になってても実際には理解できてないことも結構あるんじゃないかという気がするのです。で、とりあえずイントロだけ訳してみました。

本当は翻訳って勝手にやってはダメで、翻訳権というものをお金払って取らなきゃいけないんですけど。もしも「この本の翻訳権を取って日本語訳の出版準備を進めている」という方がいらしたら、ご一報いただければこの記事は削除します。

 

 

 

 歌は謎に満ちている。歌はどこからやって来るんだろう。君にはわかるかい? 俺は今までたくさんの、とてもたくさんの歌を作ってきたけれど、よくできたと思える歌を完成させたときに出てくる一番いい言葉は「どうやって俺はこれを作ったんだろう?」なんだ。未だに。何かを確かに成し遂げることができたのにどうやってそれをやったのか(そしてもう一度それをやれるのか)わからない、なんて混乱してしまう。

 そんなわけで、歌を作ることについて語るときには、本当にたくさんの神秘主義的な話題がつきものだと思う。「自分は歌が通り過ぎて出てくる単なるパイプにすぎない」とか、「俺がこの歌を作ることを宇宙が望んだんだ」みたいな言葉を聞いたことがあるだろう? どんな言い回しであれ、そういう類の言葉を。でも俺には、この歌を作ったのは”自分”だ、って確信がちゃんとある。俺の意識と無意識が何らかの形でパートナーになって結果を出したんだ。でもそんな風にうまくいったときはその二つ―意識と無意識―の境目ははっきりしないし、どちらが歌作りを受け持っていたのかも、本当に、全く、わからない。

 つまり、どうやって歌を作るかを教えるということは、どうやって考えるかを教える、ということに近いんじゃないかと思う。それとも、どうやってアイデアを出すか、とか。なぜなら俺にとっては、歌は他の芸術作品よりもずっと「個人的な考え」に近いものだからだ。歌はしっかりと掴むことができない―空気のように儚い。歌は時を駆ける。ここにいたかと思うと、去ってしまう…。持ち運ぶことができるのに、なかなか消えてくれない。まるで記憶みたいに。その上、記憶よりもクレイジーなことに、はっきりした理由もなく心の中に飛び込んでくる。絵画や書籍のような他の芸術には物理的な実体があってその形は永久不変だけれど、その中の何小節かを思わず口ずさんでしまう、なんてことができるものはどれくらいあるだろう?

 当然のことながら、皆は、歌は「作る」と言うより「生まれてくる」ものだと考えていると思う。「歌の作り方は教えることができる」という考えに懐疑的だ、ということだ。つまり、ひとつずつ段階を追った方法が、どのようにして歌を作る「工程」―音楽理論、伝統的な曲の形式、拍子など―に適用されるかは簡単に見て取れる。だけど俺の経験では、それは単なる「構成」だ。その歌を聞いた誰かが、「自分も歌を作りたい」と思うような、そんな歌を作る方法を教えることは、どうやったらできるだろう? その歌と恋に落ちてしまうような、その歌が恋に落ちた君に愛を返してくれるような、そんな歌を。それを人に教えることはできるのだろうか? 俺にはわからない。

 だが、その問題の重要な部分は、人に「幾つもの」歌の作り方をどうやって教えることができるのか、という深刻さにあると思う。「幾つもの」歌を作ることを教える唯一の方法は、「ひとつの」歌を作ってもいいんだと自分を納得させるにはどうしたらいいか、ということを通してしか見つけられない。俺はそう信じている。「ひとつの」歌を作ることから始めるんだ、ということを自分で自分に教えるにはどうしたらいいか、を教えるんだ。

 俺にとって、「ひとつの歌」と「幾つもの歌」の違いは、気の利いた、意味論的なトリックなんかじゃない。それは重要な違いだし、より正確には、実際にやることについての違いだ。「幾つもの」歌を作る人は誰もいない。まずひとつの歌を作る。それからもうひとつ、作る。そしてそうすることで、君は本当に欲しているものは何なのか思い出す。もしくは、君が「本当に」欲するべきだ、と俺が思っていること、を。消えていってしまうもの―時間の概念がなくなるのを観察し、少なくとも1回は、もう何もせず何者にもなろうとしない瞬間のうちに生きる。君が今この瞬間にいるその場所で時を過ごす。

 わかるかい? OK、以上だ…。それは「幾つもの」歌を通しては起こらない。「ひとつの」歌を作る過程に我を忘れて没頭したときにのみ起こることなんだ。

Pitchfork Jeff Tweedy & Spenser Tweedy Interview October 2020 (by Quinn Moreland) その2

ピッチフォーク:一緒に働くのは難しいと感じたことはありますか?

 

スペンサー:僕にとって最大の障害は、僕は創作物についてとても大切に思っていて不安も感じているということなんだ。父さんと僕は長い間ずっと一緒に作品を作ってきた、そして僕は作品がどのようにして作り出されるかとか、自分たちにとって正しいものが作れるのかとかいうことについて少し神経質なところがあるんだ。だからリラックスするのを学ぶことは僕にとって成長する上での大きな部分を占めていた。父さんと僕だけではなく家族全体でやることに関しては、特にインスタグラムのショーについては、僕たちは今までいつもやってきたのと同じことをやっているんだ。それは、自分たちの感情について話す、ということだよ。

 

ジェフ:俺が理解できないのは、親が子どもに対して、自分たちは何でもわかっていていつでも大丈夫、みたいに体裁を繕うことだよ。子どもに安全で守られていると思わせたいのはわかるんだけど、もし親が子どもに、親だって悪戦苦闘してじたばたしてるんだ、ってことを見せなければ、子どもたちにいつか必ず訪れる、人生の苦しみを感じるときが来たら、彼らは「自分は人より劣っている」とか「こんな苦しさを感じるなんて自分は正常じゃない」とか考えてしまうんじゃないかと思うんだ。(親が見せなければ)子どもは、誰かがそういう感情をうまく処理してなんとかやっていく例を見ることができないだろう。多くの親が子どもに伝えている非常に問題のある感情だと思う。この、「自分は『強い父親』であるという理想に合致している」という「不安」はね。

 

スペンサー:それどころか、父さんはそれとは正反対の育て方をした。ほとんど、本当に低いハードルを設置した、みたいな感じ。悪い意味ではなくて。でも父さんは気持ちが落ち込んでいるときはいつもとても正直だったから、ときどきサミーと僕は「ああ、僕たちは大丈夫だ」って気持ちになれたんだ。

 

ジェフ:「うまくやれるとはとても思えない...」なんてところを二人に見せた覚えはないけどなあ。

 

スペンサー:うん、そういう感情を正直に見せるのと、僕たちが父さんの面倒を見て問題を解決しなきゃ、って気持ちになるのと、紙一重のところだったよね。父さんはそうしないように用心していたけど。

 

ピッチフォーク:ジェフ、あなたはスペンサーから何を学びましたか?

 

ジェフ:成績評価がBだったからと言って嘆く子どもをなだめる、なんて、子育てというゲームで俺に配られたカードには書いてなかったはずなんだけど、スペンサーはいつもそうだったんだよね。つまり、何かをやりとげようという気持ちがものすごく強いんだよ。スペンサーといると、もっといい人間になれるよう一生懸命努力しよう、という気持ちに皆がなってしまうんだ。なぜなら、彼は俺が知っている中で一番素晴らしくて思いやりがある人間だからなんだ。妻と俺はいつも、スペンサーは俺たち二人よりよくできた人物だし、どうしてそうなったのかわからないね、と冗談交じりに話してる。彼は本当に素晴らしい高潔な人格の持ち主で、いつもほかの人のことを一番に考えていて、自分を第一に考えるのがとても苦手なんだ。また、スペンサーは信じられないくらい新しい感覚を持ったミュージシャンでもある。だから彼が俺の曲でドラムを叩き始めてから、俺の意識はかなりリズムの面へとシフトしてきている。以前よりも正しいテンポで演奏できるようになったと思うんだ。俺たちの演奏スタイルは基本的にアンプを通さないやり方で、手と指で作る音楽を聞く親密な感覚はASMR(注・ Autonomous Sensory Meridian Response自律感覚絶頂反応。それを聞くと気持ちが良くなる心地よい音。咀嚼音、PCのキーボードを打つ音、耳かき、焚火の音など)・フォークミュージックみたいなんだ。

 

ピッチフォーク:スペンサー、皆に愛されているアーティストの息子として、インポスター・シンドローム(注・成功体験から自信を得ることができず、これまでの成功は自分の力ではなく運が良かっただけと自己を過小評価する傾向)をコントロールしようと思ったことはありますか?

 

スペンサー:もちろんあるし、今でもそうだよ。『Mirror Sound』の最後の方に、エンジニアとアーティストの対立について、頭を使った知的な作業とクリエイティブで感覚をベースとした作業の相互作用について語っているパートがあるんだ。僕のインポスター・シンドロームは主にこの二つの要素がぶつかり合っていることから来ている。僕は部屋や作業場所をいつもきちんと片付けてちゃんと管理していたいんだけど、そういうのって整理整頓にまったく無頓着、っていうアーティストのイメージには全然合わないよね。レティシア・タムコ(別名ヴァガボン)みたいな、数学や科学技術をバックボーンとして持っている人たちは、そういう正反対に見えるものを両方とも楽しめばいい、ってアドバイスしてくれるんだ。

 

ジェフ:皆がアーティストや、アーティストに限らず自分がこうなりたいという対象を想像するとき、たいていは自分の外側に存在するものを想像する。でももし内側に目を向ける方法を発見することができたらとても有益なんだ。自分がそういう存在である、と想像した方がいい。人生のある時点で俺は考えが変わって、プロデューサーを雇うより自分でプロデュースした方がいいと決断した。俺は歌手になる道の途中でより大きなヴィジョンを持ったとき、その中でOKだと思えるような人物になれるよう自分自身を鍛えなければならなかった。思慮深くもなければ思いやりがあるわけでもない他人の意見は受け入れない、と決めたとき、俺は作品を作るのがずっと楽になった。

 

ピッチフォーク:ジェフ、息子さんたちが音楽に興味を持ってその道に進もうとしたとき心配しましたか?

 

ジェフ:彼らに思いとどまらせようと思ったのはひとつだけだった。音楽を奏でるという神様に与えられたすばらしい贈り物よりも、金持ちになるとか有名になるとかを重要視する、ということだ。もし彼らがそうしようとしたら俺はこうアドバイスしたと思う。それで金が稼げるかどうかよりも、音楽が人生においていつでも自分を助けてくれる、という面に焦点を定め直すべきだ、と。俺自身はこの理論を試したことはないけどね。だって今現在、音楽でたいして稼いでないんだから。でももし今みたいにうまくいってなくても、人生に音楽があることに本当に感謝したにちがいない、と信じてるよ。

 

スペンサー:父さんはそういう考えを僕とサミーに完璧に叩き込んだ。だから僕は曲を作ろうと座って作業しているときに、もしもどういうわけか野心的なことが他のことより優先されようとしてると感じたとしても、そうしないだろうと思う。その時々で、この両方が誰の心にも存在するんだ。自分の音楽を人に聞いてもらいたいとか買ってほしいとか全然考えない神様みたいな人でもない限り。

 

ジェフ:正直なところ自分の音楽を皆に理解してもらいたいのは事実だよ。人に聞いてもらうために全力を尽くすべきだと思う。「〇〇するな」と言う俺の声がおまえの頭の中で聞こえる、なんてことは望んでない。

 

スペンサー:いや、それよりももっと、音楽そのものに純粋にはまり込んでいるのでなければどんな音楽もやりたくない、って言うか。それは僕が父さんから学んで自分のものにした知恵だよ。

 

ピッチフォーク:ネットでは、ジェフが自分の父親だったらいいのに、と言っている人がたくさんいます。スペンサー、それについてどう思いますか?

 

スペンサー:とても嬉しいし、素晴らしいと思う。父さんに対する皆の認識がかなり正確だってことだよね。僕が気になるのは、父さんのことをすっかり誤解して、性格が悪いとか気難しいとか思う人がいることなんだ。そういう人たちは父さんがステージで演じている、ジョークでやってる人格とまちがえてるんだと思う。でも本当にレベルの違う勘違いをしてる人もいて、彼らはたぶん父さんとバンドのメンバーたちとの神話的な架空の物語を信じ込んでいるんだと思う。そういう食い違いがあると単純にがっかりしちゃうんだ。

 

ピッチフォーク:私はこのインタビューで「dad-rock(親父ロック)」という発想を取り上げることを法的に要求されているような気がします。この言葉が一般的になったのは、ピッチフォークでの「Sky Blue Sky」の否定的なレビューが発端なのですが、そこではdad-rockと呼ばれるジャンル、つまり家庭が第一で、安心できて、ほんの少しメロウな、そういう特徴を悪いことだと示唆していました。ジェフ、あのレビューを書いた男性が、あの言葉を使ったことを後悔していると書いた最近のエッセイを読みましたか?

 

ジェフ:うん、読んだよ。半分は謝罪してたけど、完全なmea culpa(注・ラテン語で「私のせいで」を意味し、自分がまちがっていたと認めること)ではなかったね。正直に言えば、くだらないことだよ。

 

ピッチフォーク:最近では以前よりも、そのようなお父さんのように心が優しい性質は一般にポジティブにとらえられているような気がします。そしてあなたの最近の作品では、アーティストは興味を持ってもらうためにはひどく苦悩したり不摂生な生活をしなければならない、という神話を解体することに取り組んでいますよね。

 

ジェフ:これまでは素晴らしく美しい芸術は悲惨な境遇の人によって生み出されることが多かった。それに芸術そのものについて語ることは、その背後にいる個人について語るよりずっと難しい。文化として、俺たちは個人のひどい性格や特性と芸術的な価値をごちゃ混ぜにし始めたんだ。このことについて俺はいつも困惑している。俺は実際ドラッグ中毒になったけど、ドラッグがロックと深く結びついている、なんて考えは大嫌いだ。はっきり言って不愉快だね。俺は人に何をすべきだとか言うつもりはない。でもドラッグをちゃんと取り扱うことができない人はたくさんいると直感的に思うんだ。かつての俺みたいにね。

だけどライターにとっては、芸術はそれ自体に意味を持たないと考えると芸術そのものに意味を見出すことが難しいから、長い間アーティストの方に焦点を当ててきたんだ。そして想像力が不足しているためにそれがライフスタイルやカルチャーになり、アーティストの個性や人格が芸術なんだという考え方が形成された。でもそうじゃないんだ。「芸術そのものが限りなく自由であるべきだ」という考えが革命的なものであってはならないんだ。もし君がアーティスト個人に焦点を当てようとするのなら、ある種の軽率さや破綻した人格というような性質を強調するのではなく、充実した人生を生きるために彼らの洞察力や本質を見抜く力をシェアしようとするのは全く問題ない。俺にはそれは全くまともだと思えるし、どうだっていいんだ。だって俺はこの件について正直であることが画期的だと思うから。

俺は、芸術や創造への道は誰にでも開かれている、という考えが好きだ。どんなに壊れているかとか、依存症だとか、堕落しているか等の基準はない。それが人間の一番いいところだ。芸術や創造に対する欲望を満たしてそれを手に入れたら、人生はいい方へと向かっていく。その方がいいだろう? そのことについて語るのは難しいかもしれないけど、そうした方がより好ましい結果になるんじゃないかな。つまり、心がそんなに壊れているわけではないけれど、壊れた部分を通じて他の人たちをもっと全体的なものへ導くことができるような人が増える。それはすごく素晴らしい生き方だと思う。

 

(終わり)

Pitchfork Jeff Tweedy & Spenser Tweedy Interview  October 2020 (by Quinn Moreland) その1

昨年10月に出たPitchforkのジェフと長男スペンサーのインタビューを訳しました。元記事はこちら。幼い頃のスペンサーとジェフが一緒に演奏している写真がたくさんあって楽しいので是非見てみてください。

しかしジェフの例えや言い回しはややこしい…。今回特に、最後の方(明日UPします)が意味取りにくいです。不完全燃焼な訳になってしまったことをお許しください。まあ力不足はいつもだけど。

 

pitchfork.com

 

ジェフ・トゥイーディがお父さんだったらいいのに、と思っている人はたくさんいる―スペンサー・トゥイーディにとって、それは現実だ。

 

ウィルコのフロントマンとその長男が語り合う。彼らの新しい本、互いに何を学び合っているか、そしてdad-rock(親父ロック)について。

 

パンデミックの初期、私たちのほとんどがこの恐ろしいシェルターでの生活をなんとか理解しようとあがいていた頃に、トゥイーディ一家はクリエイティブだった。ジェフ、妻のスージー、息子たち―スペンサーとサミー―はシカゴの自宅に結集し、この状況を乗り切ろうとしていた。インスタグラムで「The Tweedy Show」と銘打って、ジャムセッション、名曲のカバー、コミカルな家族のエピソードを配信し始めたのだ。ロックダウンの規制が徐々に緩やかになっても毎週の1時間に及ぶ配信は続いている。誕生日を祝い、犬が画面に乱入し、WAP(注・Wireless Application Protocol。スマホなどのデバイスでインターネット閲覧等のサービスが行えるようにするための技術仕様)についての活気のある会話が交わされた(ジェフ「俺の葬式ではこれを流してほしいね」)。すべてがとても健全だ。

 

ジェフは53歳、スペンサーは24歳であるが、2人はウィルコのスタジオからのビデオチャットで話しながら、うちの家族は絵的に完璧だよね、と笑い合っている。「ぴったりくっついて暮らしている他の皆のように俺たちもパンデミックの重さを感じているよ」とジェフは語る。「The Tweedy Showをやっているときはお互いの神経を逆なでしてるんだ。カメラが自分の顔に向いているときにうまく切り抜けようとするのはとても面白いよ」

 

たとえThe Tweedy Showの舞台裏が常に青空に虹が出ているようなものではなかったとしても、ショーはトゥイーディ家のファミリーバンドとしての雰囲気の偽りない延長線上にあることが感じられる。ジェフが2018年に出した自伝『さあ行こう。ウィルコと音楽の魔法を探しに』で書いているように、彼とスージーは息子たちに両親の仕事がどういうものか隠すことなくしっかりと見せることが重要だと常に考えていた。だからスペンサーとサミーは現在は閉店しているスージーのライブハウス、ラウンジAXにいつも出入りしていたし、地元シカゴでのウィルコのライブに出演したり、可能な時にはツアーに同行したりしていた。その結果、ジェフはThe Wiggleworm dads(注・Wigglewormsはシカゴの子供向け音楽教室)という名のスーパーバンドのメンバーとして、4歳のスペンサーを含む子どもたちの前で演奏したこともある。(注・他のメンバーはザ・ワコ・ブラザーズのジョン・ラングフォードとレッド・レッド・ミートのティム・ルッティーリ)

 

スペンサーは早くから音楽を始めた。小学生の時には既にBlistersというバンドでドラムをたたいていた。のちにジェフとスペンサーはTweedyと名付けたプロジェクトをスタートさせ、2014年にアルバム「Sukierae」をリリースした。それ以来スペンサーはジェフがプロデュースしたメイヴィス・ステイプルズやノラ・ジョーンズのレコードでドラムを叩いている。その一方で、彼自身の名前で何枚かの素敵なEPをbandcampでリリースしている。ここ数年、スペンサーとサミーは今回リリースされた「Love Is The king」を含むジェフのソロアルバムにも参加している。

 

それら全てに加えて、ジェフとスペンサーは二人そろって新しい本を完成させた。ジェフの本『How To Write One Song』は、ある部分は手引書であり、またある部分では精神的な声明である。この小さな本は曲作りを細かく分解して一連の小さなエクササイズに落とし込み、その一方で創造が人生を豊かにする力について語っている。「自己啓発本を書くつもりはなかったんだけど、これが俺の言いたいことなんだ」と彼はこの本の中で説明している。「俺は歌を作ることによってとてつもなく幸せな人間になったと思うし、以前よりずっと世の中と上手くやっていけるようになったんだ」

 

スペンサーの本、『Mirror Sound』は一つの曲というものを越えて、自宅でのレコーディングと創作のより大きなプロセスについての本だ。ローレンス・アゼラドとの共著であり、フィル・エルヴェラム、シャロン・ヴァン・エッテン、オープンマイク・イーグル、ブレイク・ミルズ、ヴァガボンのインタビュー、他にも大勢の自宅でレコーディングするミュージシャンの写真が掲載されている。ほとんどレコーディングスタジオで育ったと言えるスペンサーだが、自宅録音について知ることで人生が変わるような実感を得た。「こんなにたくさんの人が、高校生の子どもでさえも、自分の力でレコードを作ることができるなんて知らなかった」と彼は本の導入部で書いている。

 

どちらの本も、芸術とは名門の学校に行けたり、自前の高級な設備を持っている人(または有名なロックスターと関係がある人)のみが生み出すことができる、という神話を解体している。「クリエイティブな人とそうでない人がいる、なんて考えは排他的だし頭がいかれてる」とスペンサーは書いている。「それよりも、資料にどのくらいアクセスできるかとか、そもそも始めるための能力の差とか、芸術に費やせる時間に影響を与えるような刺激的な経験をどのくらいしてきたか、ということのほうが真実じゃないかと思う」 彼らが、私たち全員が自分の持てる時間の中で如何にクリエイティブになれる可能性があるかについて語り合うのを聞いていると、素直に「やってみよう」と思わされるのだ。

 

 

ピッチフォーク:ジェフ、スペンサーとサミーが子どもの頃、あなたとスージーはどのようにして二人がクリエイティブであるように仕向けたのですか?

 

ジェフ:多くの親たちは素晴らしい目標を持っているけれど、子どもたちの人生に干渉しすぎる。スージーと俺はいつも彼らを独立した一人の人間ではないように扱ってきた、とは思わない。俺は二人を言い負かして黙らせたりすることはなかったし、二人はより大きな概念を理解していると思っていた。それに俺はスペンサーやサミーと一緒に床に座り込んで絵を描いたり楽器を弾いて歌ったりするのが大好きだったし、そうすることが当り前のことなんだっていう雰囲気を作ろうと心がけていた。多くの家庭では庭に出てキャッチボールをするのが普通のことだ、ってのと同じようにね。そこには暗黙の了解があったんだ。だって俺自身がまさにそういう人生を歩んできたんだから。そんなことが可能なんだ、ってわざわざ言う必要なんかない。俺自身が、誰でも作品を作って、それを発表して、演奏することができる、っていう生きた見本なんだ。

 

スペンサー:それと合わせて、モンテッソーリ学校(注「自立していて、有能で、責任感と他人への思いやりがあり、生涯学び続ける姿勢を持った人間を育てる」ことを目標として子どもの自発的な活動を促すモンテッソーリ教育法を行う学校)に通ったことがとんでもなく幸運だった。そこでは皆が生徒の話をちゃんと聞いて、シェアするに値する考えを持っている人物として扱ってくれる。それは甘やかすことと同じではないんだ。敬意にほかならない。家でも学校でも大人に対するのと同じように敬意をもって接してもらえたから、作品を作ってもいいかどうか疑問を持つなんてありえない、って感じだったんだ。芸術への奨励は環境と深く結びついていた。それこそが僕の特権だったと思う。お父さんのギターを弾けるという有利な立場、みたいな現実的な形のあることよりもね。それもまたとても大きな部分ではあるけれど。だって明らかに他の人よりも道具へのアクセスがとても簡単にできるわけだから。

 

ジェフ:もうひとつ無視できないことは、特にスペンサーは、ほんの小さな子どもの頃にラウンジAXという世界で一番クールなクラブのひとつに毎日通って、おびただしい数の大人たちがドラムをセットアップして、演奏して、音楽について話しているのを見ていたんだ。学校の外ではスペンサーの環境のほとんどすべては、大人たちが芸術を作っている所だったんだよ。

 

ピッチフォーク:スペンサー、こんなにたくさんの創造性に囲まれていたことは、あなたの音楽についての考え方をどのように形作りましたか? 芸術的な人生に反抗しようという気持ちは起きなかった?

 

スペンサー:自分の傍にいる両親がロック界の人間だという場合にどのようにして成長していくか、ということといつも悪戦苦闘していたよ。そのことでいつも居心地の悪い思いをしてきた。特に2014年、「Sukierae」の発売後に父さんとツアーをしたときにしばしば感じたね。たくさんの人がまず最初に思った疑問は「あなたはお父さんとツアーをしているわけだけど、それって変じゃない?」ってことだった。それについて僕が考えるようになったのは、こんなに素晴らしい、僕のやりたいことをサポートしてくれる両親を持ったことに本当に感謝するし、そのことは他のどんなことをもひっくり返してくれる、ってことだけなんだ。もし僕があまのじゃくだったり反抗的な人間だったりしたらわからないけど。でもそういう感情のはけ口は他にもたくさんあると思うし。特に今ではね。

 

ジェフ:俺は、ジェネレーション・ギャップなんて誰かがマーケティングのために信じさせようとしてるでたらめだと思うよ。アメリカのビジネス界が人口統計学的に世代を分けて、「ジェネレーション」という考え方で対象となる人を定め、分割して支配するためのちょっとした手段なんだ。そいつが俺たちの世代に若者を拒絶する許可を与えてる。恐ろしいことにね。そして若者たちには、たとえば俺みたいな人間を無意味にさせるようなやり方で世の中は変わってきた、みたいな考えを植え付けるんだ。でも多くの場合、異なる世代にもたくさんの共通点がある。だって俺たちの年齢の人間は全員がかつてはスペンサーの年齢だったんだよ。それにインターネットが昔よりも時間を循環させている。俺が子どもの頃、両親のことを好きな奴なんて聞いたことがなかった。もしパンクロックやそういうものにはまっていたら、両親は闘わなければならない一番身近にある権力だったんだ。

 

(続く)

Esquire  Jeff Tweedy Interview 2020/10/7

10月7日にアメリカのエスクワイア誌に掲載されたジェフのインタビューを訳しました。例によって拙い翻訳と誤訳もあるかと思いますがご容赦ください。

元記事はこちら。

www.esquire.com

 

僕たちはまだ解決することができる。ジェフ・トゥイーディに尋ねさえすれば。

 

新しい本とソロアルバムでインディーロックの賢明な先達が語る。政治について、ウィルコの将来について、そして僕たちは死んだらどこへ行くのかを。

 

 

ロックバンド、ウィルコの創始者にしてリードヴォーカリストのジェフ・トゥイーディは、ほとんど毎晩7時ごろ風呂に入る。それは比較的新しい習慣だ。大人になって以来の生活で、現在彼は最も長い期間家に閉じこもっている。オルタナカントリーバンドのアンクル・テュペロでベースを弾き始めた80年代の後半以降、1994年のウィルコ結成からパンデミックでほぼ世界中がシャットアウトされた現在に至るまで、トゥイーディは人生のほとんどすべてをツアーの中で過ごしてきた。「ツアーでの生活はとても規格化されている。俺みたいに不安障害を持ってる人間にとっては楽なんだよ」10月の初旬、トゥイーディはZoom越しにそう語った。「家にずっといると健康的な生活様式を構築するのは少し難しいね。エクササイズと入浴は俺が実行している有効な方法だけど。俺はセルフケアの儀式に没頭しているところなんだ」

 

3月以降トゥイーディはずっと ― 彼の経歴を説明しておこう。グラミー賞を受賞したレコードのプロデューサーにしてソングライター、ベストセラーとなった自伝の著者で現在53歳。インディーロック界の知恵に溢れる先達だ ― シカゴ北部にある自宅にいる。彼はスージー(注・奥さん)と2人の成人した息子、スペンサー、サミーと一緒にそこに25年間住んでいる。いつも午前の遅い時間に近所のレコーディングスタジオに行き、夕方早い時間に帰宅してフィットネスバイクでエクササイズして、それから風呂に入る。夜には一度手を洗ってから「The Tweedy Show」で主役を演じることも多い。これは彼の妻のインスタグラム(@stuffinourhouse)でのライブ配信で、トゥイーディ一家は3月にこのショーで配信デビューを飾った。そこではしばしばトゥイーディ、スージー、スペンサー、サミーが演奏し、軽いジョークが飛び交っている。

 

ソロアルバム「love Is The King」(配信は10月23日、アナログとCDは1月15日発売)と2冊目の本「How To Write One Song」(10月13日発売)の直前、トゥイーディは政治、新しいプロジェクト、そしてウィルコの将来についてエスクワイアに語った。だが最初に、私たちはこの会話でインタビューを始めた。2018年発行の彼の最初の本「Let' Go(So We Can Get Back)」で彼が読者に語り掛けると言うよりもむしろ問いかけようとしていた、そして話をクリアにするために軽く編集され要約されていたあの質問だ。

 

Esquire:私たちは死んだらどこへ行くと思いますか?

 

Tweedy:それは…わからないね。それは俺の人生における大きな難問だし、多くの人々にとってももがき苦しみながら越えなくてはならない、答えのわからないハードルだ。わからなくてもだいじょうぶ、という境地に至るのは、たぶん、俺たち全員が到達しなければならない最も難しいことのひとつだと思うよ。俺たちは「死んだらどうなるのか」という恐怖と戦っているけれど、本当に嫌なのは「答えがわからない」ということなんだ。このインタビューの残りの時間を全部このひとつの質問に使ってもいいくらい話ができるよ。いつもこのことについてじっくり考えているんだ。この質問に対してだけではなく、質問の答えとして何が求められているかについても。

 

E:満足のいく答えは見つかりましたか?

 

T:天国や輪廻転生や、その類のものについての特定の考えには同意しかねるね。俺にわかっているのは、俺たちがここに来る前にどこにいたのか誰も知らない、ってことだけだよ。この神秘的で興味深い事実にはいつも強く心を打たれる。俺たちの人格は、存在は、自分という意識はどこから来たんだろう? 俺たちはみんなこの世に生まれてくるけれど、その前はどこにいたんだろう?

 

E:その疑問について考えるのに多くの時間を費やしましたか?

 

T:もし誰かほかの人たちと話す機会がなければきっとそうしただろうな。スペンサーは哲学の学位を持っているし、サミーはラビ(注・ユダヤ教の指導者)の学校に行くことを検討している。だから俺たちが家でする会話はこういうものになりがちなんだ。

 

 

トゥイーディは南イリノイのベルヴィルという小さな町で生まれ育ち、スージーと一緒にいるために1994年にシカゴへ引っ越した。2000年代の中盤、彼はもうひとりのシカゴへの移住者の味方になった。バラク・オバマだ。2005年に当時上院議員だったオバマはFarm Aid(注・経営難に苦しむ小規模農場や個人農家のためのチャリティコンサート)でウィルコを紹介した(注・YouTubeに動画有り)。2008年の大統領選挙期間にはバンドはチャリティコンサートを行っている。オバマ一家がワシントンへ移った後、大統領はトゥイーディとバンドメンバーたちをホワイトハウスへ招待した。

www.youtube.com

 

E:オバマ大統領と電話で話したことはありますか?

 

T:いや、でもラーム・エマニュエル(注・55代目シカゴ市長。バラク・オバマ政権一期目で23代目大統領補佐官)からはたまにかかってくるよ。

 

E:どんな話をするんですか?

 

T:もう長いことかかってきてないけど。

 

E:電話がかかってきたときはどんな話をしていましたか?

 

T:正直言ってそんなにたくさん話はしてないんだ。純粋に事務的な話だよ。寄付をしてくれないかとか、彼のポッドキャストに出演しないかとか、そういうこと。だから彼の電話に出るのはちょっと気が進まないんだよね。[ 間 ] これ記事にならないよね? まいったな、彼に銃撃されちゃうよ。

 

 

E:私たちはこの国をどうやって癒していけばいいのでしょうか?

 

T:どうやって修復していけばいいのか俺にはわからない。ただ言えるのは、自分が大きすぎる怒りに飲み込まれることを許さないように努力している、ということだ。俺たちをこんな窮状に陥れた責任がある人たちに対して、俺は衝動的な怒りや憎しみを感じている。政治家たち ― 彼らがこの大惨事のいくつかに手を貸したんだ。彼らを許そうと思える日が来るのか、俺にはわからない。でも典型的なトランプ信者 ― 白人で、不満を感じていて、孤立していて、俺が成長するときに周囲にいた人たちととても似ている ― 彼らに対しても俺はものすごく怒っている。自分が、彼らを救済される価値がある存在だと思うことができるかわからない、という点において。こんな風に感じるのは嫌なんだけど。

息子たちにもいつもこういう話をしているんだ。こんな風に言うのが俺に思いつける最良のことだよ。「彼らトランプ支持者にもいつか俺が必要になるかもしれない。そして俺にも彼らが必要になるときがくるかもしれない」って。これは国家として道を踏み外している俺たちにとってのあるひとつの方法なんだ。一度立ち止まって自分自身に問いかける ― お互いに役に立つようになれないだろうか、と。もう亡くなったけど俺の兄は赤いキャップをかぶったトランプ支持者になっていたかもしれない。彼はかなりレイシストで、世界に対して特に好奇心がある人ではなかったけれど、誰かを助けることに関しては本能的に寛大で積極的だった。それが誰であっても。義務を求められていると感じたら ― たとえば道端で車のタイヤを替えている家族を助けるような ― 彼は相手が白人でも黒人でも気にしなかった。自分が人の役に立てるということが単純に気持ちよかったんだ。そういうことが、このすべてのものごとについて、失われている(注・互いに助け合うための)機会なんだ。仲間に対してどんなに大きな怒りを向けているかくよくよ考えている自分を俺は許せないんだよ。

 

E:うちの近所には大きなトランプの旗を掲げている家が何軒かあるんですが、彼らはこの一帯でも一番と言っていいくらいいい人たちなんです。私にはこの二つのことがどうしても両立しないんですよ。彼らは大統領の憎悪に満ちたイデオロギーに賛成なんでしょうか? 彼らはレイシストなんでしょうか?

 

T:ほとんどの場合、その疑問は厳格に純粋さを要求したいという衝動なんだよね。問題は、そういう衝動は救済への道を開かない、ということなんだ。救済への道は誰にでも開かれるべきなんだよ。悲しい事実だけど、たくさんの人が極悪非道なものを支持することが可能になっている。でも彼らは決してモンスターじゃない。断じて違う。理解するのは難しいんだけど、彼らの多くは全く注意を払っていないし、気が付いてもいない。彼らには政治的なものを無視する自然な傾向があるみたいなんだ。なぜなら彼らは政治的なものはすべて、見せかけのまやかしだと確信しているみたいだから。俺の両親は、ニクソン以降の政治家たち全員に懐疑的だった。政治家になるような人間は疑ってかかるべきだ、と思っていた。でも父は亡くなる前には完全にアンチ・トランプだったよ。トランプの性根を憎んでいた。父にとってのトランプは「上司の息子」だったんだ。

 

 

トゥイーディの3枚目のソロアルバム「Love Is The King」は彼の息子たちと共にレコーディングされた。彼らは2人ともミュージシャンだ。メロディはウィルコのファンにとってなじみがあり、カントリーからストレートで円熟したロックバンドに至るまでの音の豊かなカタログを通してウィルコの道をたどっていくようなものだろう。トゥイーディはこの悲惨な1年を、熱望、家を思う気持ち、恐れ、そして希望をこめた歌詞に反映させている。

 

E:このアルバムは私たちの現在の状況を反映しているように思います。制作中にこの2020年の出来事を思い浮かべていましたか?

 

T:「Troubled」という曲以外は全部3月以降に書いたんだよ。

 

E:「Save It For Me」は今年のために作られた曲だと感じました。特に「この世界がばらばらに壊れていくとき(When the world falls apart)」と繰り返されるフレーズや「今日誰も電話をかけないのには理由がある 君が頼りにしている人たちは何を言えばいいのかいつもわかっているわけではないんだ(There's no reason no one will call today / The people you lean on don't always know what to say)」という節も。

 

T:この曲で俺が一番誇りに思っているところは「誰もいない部屋に灯っている明かりは 愛ができることのすべて(A light left on empty room / Is all love can be)」というフレーズだよ。そういうことが、俺たちがお互いのために存在する、ということなんだ。たとえ姉と毎日話をしなくても、俺は彼女がそこにいるってわかってる。君の世界が暗闇になることは許されない。慰めは必ずどこかにある。それはほとんどの場合、他の人たちの中にあるんだ。家族や愛する人の中に。

 

 

6月に出した声明でジェフはこう書いている。「現代の音楽産業はほとんど完全に黒人音楽の土台の上に成立している。本来なら黒人アーティストたちのものであるべき富は完全に彼らから盗まれていて、今日に至るまで彼らのコミュニティの外で増え続けてきた」と。トゥイーディは作詞作曲の収益の5%をMovement For Black LivesやBlack Women's Blueprintなどの黒人運動に寄付すると約束し、他のミュージシャンたちにも同じことをするように呼び掛けた。

 

E:6月に出した声明に何か裏話はありますか?

 

T:俺は単純に、音楽業界に統一された賠償計画がないのは間違ってると思うんだ。俺たちの業界はこの議論を始めるのに最適なもののひとつだと思う。(俺が提案したことは)賠償を守るための他のいろんな議論とは違う。きわめて当然のことなんだ。どのようにしてそれ(黒人からの簒奪)が起こったか明白に説明できる。罪悪感ではなく正義で、現実なんだ。

ロックの殿堂が俺たちの文化において影響力を持ち始めたとき、俺は彼らがいつかこの問題に取り組むだろうと思った。でも彼らはそうする代わりに、シスター・ロゼッタ・サープを殿堂入りさせるのに20年もかかったんだ。BMI(世界最大の音楽に関する権利団体)のようないくつかの組織とともに俺たちはゆっくりとだけど確実に前進しているし、どんどん前に進み続けてるよ。でも正直に言って、テイラー・スウィフトのようなビッグアーティストたちが反応してくれなかったことには少しがっかりしてるんだ。俺の声はそんなに目立たなかったんだな、って。もっとたくさんの人たちが反応してくれたら、きっとすごく嬉しかったのに。でも俺が提案したみたいなプランはきっとすぐに可能になる。そう確信しているよ。

 

 

2010年、ウィルコはSolid Soundの開催を始めた。マサチューセッツ州西部のバークシャー山間地域で1年おきに行われる音楽とアートの夏のフェスティバルだ。このイベントは、彼らのファンが長く続いていることの証拠なのだ。前回は2019年に開催された。ほとんどのバンドとスタッフにとって、ツアーは最大の収入源だ。「いい1年ではなかったね」とトゥイーディは言う。彼は今までの所なんとかバンドとスタッフたちに給料を支払い続けることができている。パンデミック前の収入と、ありがたいことにいくばくかの貯金と、今年の早い時期に受け取ったPaycheck Protection Loan(注・特定企業、自営業、個人事業主に対するアメリカ政府によるコロナ対策のビジネスローンブログラム)、それから何曲かをCorona(注・あのビールの会社と思われます)とBush's beans(注・豆の缶詰の会社)のコマーシャルへの使用を許可するという決断のおかげで。「資金繰りのためには曲のライセンスとコマーシャル使用についての自分の基準を早めに捨てなくてはならなかった」と彼は語った。

 

 

E:ウィルコは次に何をやる予定ですか?

 

T:新しいアルバムのレコーディングがだいたい4分の1から3分の1くらい終わってる。メンバー全員、自分のスタジオか、少なくとも自宅にオーバーダビングできる設備を持ってるからね。たぶんこの冬のあいだはリモートで作業することになると思う。理想では来年発売の予定だよ。次のSolid Sound Festivalの準備も頑張って進めている。実現できるなら可能性としては来年の後半になりそうだけど。そうできるように祈り続けてるよ。

 

E:ウィルコはどれくらい続きそうですか?

 

T:演奏するバンドとして、ってこと?

 

E:そうです。

 

T:俺はバンドが解散するなんて信じない。だからおそらく俺たちが「できなくなるまで」だね。それからみんなが俺たちの曲を聞きたいと思っている限り、それと少なくとも俺たちが音楽を作るのにどんなことにインスパイアされたかみんなが少しでも興味を持って聞きたいと思っている限り、かな。単なるノスタルジア、懐かしいバンドとして演奏するようなことはないよ。いつでも俺たちはわくわくするような新しい素材を必要としている。幸運にも昔と同じくらいそのエネルギーを持ち続けてるんだ。

 

 

「How To Write One Song」はトゥイーディのこの2年間で2冊目の本だ。「ニューヨークタイムズ」のベストセラーになった最初の本「Let's Go(So We Can Get Back)」では、彼はミュージシャンとしての生活や痛み止めへの薬物依存症と、2004年にその治療を求め、それが効いたことなどを語っている。新刊では、ある章では曲を作るためのマニュアルについて、他の章では創造に対する人間の欲望 ― 必要性 ― についての哲学的な問いかけについて語っている。一方では読みやすく楽しい本でもある。

 

 

E:パンデミックと社会の混乱、そして歴史的な大統領選挙がすごい勢いで迫ってくるこの時代において、芸術はどんな意味を持っているでしょうか?

 

T:芸術はすばらしい慰めだ。どんな暗闇の中でも芸術は光だ。この不当に脅かされている世界で、芸術が生み出したものにどれだけ元気づけられたことか。人間の中に存在する創造したいという欲求を殺すことは、本当に想像を絶する悪になる。それはきっと創造がとても大きな癒しの力を持っているからだと思う。特に音楽は、人の気持ちを上向かせるのに他とは比べようのないくらい大きな力を持っているんだ。

先日ドライブインシアターでコンサートをやったんだけど、俺たちがステージに出る1時間くらい前にギンズバーグ判事が亡くなった。息子たちも友人たちも泣いていたよ。みんな本当に絶望していた。もちろん俺も。俺が息子たちに言えたのはこれだけだった。「ステージに出て何曲か演奏してその集中力を保ち続けることができたら、きっと気持ちが上向きになる。コンサートが終わる頃にはほとんど癒された気分になっているだろう。この心配事がなくなるわけじゃない。でもお前たちはそれが存在すること、それを取り除くのは難しいことを思い出すよ」と。わからないけどね。本当に魔法みたいなんだ。

 

E:あなたは未来について楽観的ですか?

 

T:うん、楽観的だよ。俺はいつだって揺らぐことなく楽観的だ。そうでなきゃならないんだ。もし君が勇気を奮い起こし希望を持ち続けることができるなら、それが君のなすべき仕事だ。そうすることができない人たちのために、または君よりもずっとそうするためにもがき苦しんでいる人たちのために。勇気を出して未来への希望を持つことを一生懸命にやらないなんて、子どもの親としてとても残酷なことなんだよ。俺が子どもの頃は、未来は常にいろんな問題が解決されてどんどん素晴らしくなっていくところだったんだよ。今だって多くの場合、それは真実だ。前進するための俺のスローガンは「もう一度偉大な未来を取り戻そう」(注・原文はMake the future great again。トランプのスローガン「Make America great again」に掛けていると思われます)だよ。

俺にとってパンデミックから導かれた結論は、暗闇の中で生きるために人間はどう上手く順応していくか、ってことなんだ。状況に合わせて適応し、人と繋がり続けたり助け合ったりする方法を見つける。現在すべてのことを通じて、個人もコミュニティも驚くべき方法で自らの行動を修正し続けてる、この状況をなんとか切り抜けるためにね。もちろん全員にそれができているわけじゃない。多くの人たちにとっては依然悲劇が続いているんだ。でも俺自身の経験に過ぎないけれど、俺たちは完全に恐れていて人生最悪の危機の果てに暮らしているような気分だし、実際に世界的なパンデミックと経済的打撃の中にいるんだけど、それでもこないだの夜、俺たちはピザを囲んで笑ってたんだ。こんな時でも喜びを見出すことはできるんだ。なあ、人間ってすごいだろ? だから俺たちは今もここにいるんだよ。

 

(終)

LINER NOTES FOR JEFF TWEEDY'S "WARM" (by George Saunders)

2018年発売のジェフ・トゥイーディのソロアルバム「WARM」のライナーノーツを訳しました。書いたのはアメリカの作家、ジョージ・ソーンダーズ。邦訳も何冊か出ています。現在新刊書店で買えるのは「十二月の十日」(岸本佐知子・訳、河出書房新社)と「リンカーンとさまよえる霊魂たち」(上岡伸雄・訳、河出書房新社)。「十二月の十日」は読みました。すごくよかった。(「リンカーン~」も買ったけど積読中です...)読了後「なんかWilcoぽい!」と思って調べたら「WARM」のライナーを書いててビックリ。そういえば、後で読もうと思って忘れてたわ...。「WARM」は日本盤が出てなかったはずなのでこのライナーも公式に訳されたものはないかな、と思って訳してみました。もしすでにちゃんと訳があったら無駄な作業だったかも。でも趣味だからいいか! なんか自分ではうまく訳せたような気がします。

原文は「ニューヨーカー」のサイトで読めます。

 

 

www.newyorker.com

 

 

LINER NOTES FOR JEFF TWEEDY'S "WARM" (by George Saunders)

 

 ひとりの人間が人生のあるステージに到達する―私自身もそこにいるのだが―そのステージとは、すでに子育てに悪戦苦闘(とても素敵な娯楽だ)するのを過ぎ、死について考え始める段階だ。それも、他の誰かの上に起こる抽象的な概念としてのそれではなく、巨大で冷淡な列車が、その瞬間においてさえも、見知らぬ、だが無限の彼方にあるわけではない駅を転がるように出て行くものとして、だ。「今こそ、ついに、幸せになるべきときじゃないのかい?」と世界中が尋ねはじめる。そしてそれに続く複雑な問いかけ―「だけど、こんな世界でどうやって幸せになれるんだ?」と同時に。言い方を変えよう。僕たちは愛するために生まれてきたみたいだけど、ここにあるものはすべて条件付きだ(すなわち「終わり」がやって来る)。「死」という名の巨大なピアノが最終的に僕たちの、いや僕たちだけではなく僕たちが愛するすべての人たちの上に落ちてくる時代に、どうやって生きて行けばいいんだろう?

 このアルバムがその答えだと僕には思える。いや、答えと言う以上に、この質問の正当性に対する肯定だと。このアルバムを聞いた人は、人生に対して慎重であるべきか、それとも人生を楽しむべきかと尋ねるだろう。

 「Yes」とジェフ・トゥイーディは答える。

 

 芸術は何のためにあるのか。長年の間自分に問い続けて、僕はこう考えるに至った。芸術家の役割とは、時間と空間とそして操作盤(コンソールconsole)を通じて、治療や処方薬ではなく、むしろ少なくない「慰め」(コンソレーションconsolation)を提供することなのだ、と。

 ジェフは僕たちの、偉大な、皮肉っぽい、「慰め」を与えてくれるアメリカの詩人だ。抽象的な意味で言っているのではない。彼が演奏しているのを見ていると、アクティブに慰められている人たちの中に自分もいることを発見する。心を動かされ、不安を取り除かれ、君は正しいと保証してもらい、自分は聴覚で感じるダイナミックな友情の一部になっている、と。かつてジェフは僕にこう言ったことがある。彼がリスナーに伝えようとしていることは、「君はだいじょうぶだ。君はひとりじゃない。俺は君のために歌ってるけど、それと同時に君の声を聞こうとしているんだ」ということなんだ、と。2016年から2017年にかけて数多くのアコースティックライブを行った後、彼はオーディエンスに最もダイレクトに語りかける歌を集めたアルバムを作ろうと決めた。ジェフが彼らとのつながりに見出している価値の証拠として。

 

 「WARM」がそのアルバムだ。

 

 偉大な芸術とは、実際のところ、偉大な人間性が凝縮されたものでしかない。ある人間のエッセンス―その存在の確かなフレイバーとともに流れてくるかすかな音のようなものだ。僕はデヴィッド・フォスター・ウォレスやグレイス・ペイリーやトニ・モリソンのような作家に会ったときそういう印象を受けた。長年のハードワークが彼らの中にある個人的な「何か」を精製して作品の中に注ぎ込む。それは彼らの個性とともに注入されるのだが、その後作品として発展し、普遍的なものになる―そういう感覚だ。僕はこの感覚をジェフと彼の音楽に対しても感じている。あらゆる芸術の形態における独自のスタイルの本物のしるし、ほんの何秒か接するだけで、その作品が誰のものなのかわかる。「WARM」を5秒聞けば、これはジェフだ、とわかる。たとえばギターの音で(このアルバムの音楽的な心臓は1930年代のマーティンD-18。すべてのウィルコのアルバムで、たとえほんの少しにせよ聞くことができ、このアルバムの全曲に使用されている)。そして、あの素晴らしい声で―フレンドリーで(だが手強く)、優しくて(にもかかわらず疑い深くて)、鋭い(でもあたたかい)。しかしそれだけではなく、なにかもっと本質的なもの―ひとたび曲が始まったら、音のない、いわゆる「間(ま)」においてさえ存在する、長年彼の歌を聞き続けて僕の精神の力強い構成要素となった、あの特徴的な「ジェフらしさ」、それによってわかるのだ。

 

 もう長いこと、僕たちの文化は、芸術の効用とは警告し、非難し、批判し、冷笑し、却下することだと考えてきたように僕には思える。確かにそれらは芸術の効用の一部だ。だがそういうことしかしない芸術は、非建設的―破壊的なものだ。破壊は、すでに僕たちの世界の支配的なモードだ。でも、もうたくさんだ。「その家を焼き尽くせ!」と扇動する奴は燃えている家の中にはいない。絶対に。僕たちが真実生きるために必要なものは何だろう? 僕たちの人生―僕たちの本当の人生は、ほとんど全面的に「優しさへの試み」からできている。僕たちは愛する人々のために一生懸命働き、彼らの幸せを夢見て、たとえどんなに小さい痛みからでも彼らを救うために道を踏み外し、彼らがその痛みを感じたら楽になれるようにする。

 

 僕の考えでは、ジェフは「優しさの戦士」だ。彼は「優しさ」を「ロックンロールの悪徳」にして僕たちが受け取りやすいようにした。僕はニューエイジ的な意味で「優しさ」と言っているのではない。たとえば誰かが君の頭に釘を打ち込んだら、君は手のひらを重ねてわざとらしく深いお辞儀をしながら「新しいコート掛けを作ってくれてありがとう」と言う、みたいな。そうじゃない。トゥイーディ流「優しさ」は、洗練されていて、タフで、可笑しい。強さと良質のユーモアから生まれ、怒りや困難や苛立ちを妨げない。君は彼と同じように「リアル」で、注意を払われるに値する。そしてこの世界は僕たちの豊かな、恐れを知らない興味で満たされている―そういう前提のもとに生まれてきたものだ。そして実際にそうなのだ。

 

 詩人とは、言葉どうしを反応させ合える人のことだ。言葉の意味と響きは親友だと信じて、互いに働きかけることができるような小さな部屋を作ってやれる人だ。ジェフは、音と一緒にまとめる方法で詞を書く。メロディを見つけるまではハミングしたりもぐもぐ言ったりする。そうすると、その「もぐもぐ」が言葉やフレーズという形を取り始める。自分が言いたかったことは何なのか、辛抱強く待ち続ける間に。これは、かすかなものであれ明らかなものであれ、言葉が持つ意味を思うがままに表出させる、驚くべき繊細なやり方だ。そして僕はどういうわけかファイアーフライ(蛍のこと。シカゴでは僕たちはこう呼ぶ)が輝きを増し、やがて去っていく様子を思い出す。そして僕たちは自分にこう尋ねるのだ。「あれ? 今、蛍を見たかな?」と。

 

 信頼できる確かな詞の花が、10曲の歌という庭に規則正しく芽を出している。それがこのアルバムだ。父を亡くした息子が、彼の妻に、息子たちに、そして父に向けて歌っている。そこには謝罪がある。そして謝罪の鏡に映った双子とも言うべき敵への脅し(「君をそこに連れて行って置き去りにしたい」)や、強い嘆願(「もう一度雨を降らせよう!」)、夢見るような挑戦(「どれだけ多くの自由を僕たちは夢見ることができるんだろう?」)がある。そして、単純な機能を持つ言葉を意地悪く変形させたものも。ジェフの歌は、リスナーにもう一度言葉を愛することを教えてくれる。

 

 「たくさんの歌の道を通り過ぎてきた」とジェフは「Bombs Above」で歌っている。「一番暗い闇から、一番明るい陽光の中へと」と。

 

 この世界で歌にできることは何だろう? そう、君にはわかっている。歌は、人の心を瞬時に開くことができる。歌は、怠惰や傲慢やクソみたいな気持ちから君を抜け出させてくれる。この死に絶えた世界を突然生き返らせることだって、できる。君に(父、夫、息子に、または母、妻、娘に)新たに気付かせることもできる。人生は短く、愛を(たとえそれがどんなものであっても)今すぐに注がなければならない、と。歌は、いろいろなことを、それを作った人のことをも、好きにならせることができる。疲れて、古い慣れ切った気持ちに、まったく新しい何かが現れる。歌がもたらす影響のもとで、人は再び夏の日の子どもになれるのだ。

 

 「WARM」は僕が長年聞いてきた歌の中で最も楽しく、祝福された、影響力のある歌を集めたコレクションだ。親密で、だが果てしなく広大で、どこか特定の場所に(コンピュータの中ではなく)実際に存在する人たちによって、愛をこめて作られた感じがする。このアルバムを聞きながら、僕はこんな想像をしていた。どこか森の中にあるしっかりとした小さな小屋(シカゴの森の中かな?)。大きな黄色い月の下、そこには4~5人ジェフがいて、全員が違う楽器を演奏している。ドラムはスペンサーだ。スージーとサミーもそこにいて、暖かい火が燃えていて、煙っぽい空気の中には愛と、発見と、好意の感情が漂っているのだ。

 

 そして僕は思うのだが、そこには2017年に亡くなったジェフの父親、ボブ・トゥイーディの魂もいる。ジェフが言うには、彼の死は「ほとんどすべての人間が申し込んで契約するような死」だったそうだ。つまり、いわゆる「いい死に方」だった、ということだ。家族はその最期のときに間に合わないかもしれないと懸念していた。でも彼らは間に合った。そして彼は愛に包まれて旅立った。全員がこの深遠な機会に立ち上がり自然に歌が歌われたのかもしれない。それは誰でもが迎えることができる形の死ではなかった。でもジェフの父親は、その不思議な、誰もが大いに望む祝福を迎えることができた。愛する人がその人生の最期に「堂々とした威厳のある旅立ち」という慈愛に満ちた贈り物を受け取るのを見ることは、世界をどのように見るかということにどれだけ強い影響を与えうるだろう? そして僕がこのアルバムを通じて見出したのは、こんなことが起こり得るのだという感謝であり、喜びですらある。死は、人がそれを恐れるのと同じくらい、実際には何も否定しないし、極めて本質的な何かである、という悟りに対する驚きとともに、僕はそれを感じたのだ。

 

 「ああ、僕は天国なんて信じない」と、このアルバムのタイトル曲でジェフは歌う。「僕は自分の中にある熱を持ち続けている。夏の赤いレンガみたいに。太陽が死んでしまっても暖かく」と。赤いレンガとは何だろう? それは僕たちだ。君と、僕だ。そして、ジェフでもある。その暖かさはどこから来るのだろう? 愛と、好奇心と、前に進もうとする欲望を注ぎ込むことで、一瞬から次の一瞬へと、今この瞬間でさえも僕たちを生き続けさせるこの神秘的なものは、いったい何なのだろう?

 

 「そのとおり」とジェフは答える。